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札幌交響楽団

札幌交響楽団

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お客様アンケート※ 2021年9〜10月に実施

札幌市在住 79歳(定期会員)
札響の演奏会で最も印象に残っている演奏会とその理由をお書きください。
初期の定期演奏会から聴衆として参加していますが、当時は荒谷さんの教え子なども楽団員にいて演奏技術も覚束ない演奏が多く、特に管楽器のソロの部分は危なかった。観客として大変ハラハラした記憶があります。
札響の演奏会等で印象に残っている演奏家(楽団員も含みます)とそのエピソードをお書きください。
定期演奏会にソリストとして参加したアンドレ・ワッツです。ピアノ協奏曲は硬質のスタイルで完璧、アンコールで超絶技巧のカンパネラを演奏しました。強烈な印象が残っています。
その他、印象に残っている札響の活動がありましたら、お書きください。
旧市民会館が何かの事情で使えず、共済ホール、藤学園の講堂など市内の大きな会場に移動しながら演奏会をしたことです。厚生年金会館に会場が固定化してからは札響の音を楽しめるようになりました。Kitaraに移ってからはこのホールの響きが最高でhitaruではいつもの響きが楽しめませんでした。
〝還暦〟を迎えた札響へのメッセージをお願いいたします。
最近の定演で、会場には高齢者が大変多くみられます。ヨーロッパでの演奏会も同じような印象です。これから地元で開催される演奏会を楽しみにしている高齢者の会員からの感謝コメントです。もう一言、最近の定期演奏会で、開演前のステージに楽団員が出て自分のパートの練習をしている風景が見られますが、観客が入場している会場でこの風景は如何かと思っています。演奏への期待を削ぐ行為のように思えるのですが。第1回定期演奏会からの聴衆より。
札幌市在住 68歳(会員)
札響の演奏会で最も印象に残っている演奏会とその理由をお書きください。
2011年4月の第538回定期演奏会、ラドミル・エリシュカ氏指揮ドヴォルジャークの『スターバト・マーテル』。ラドミル・エリシュカ氏がプログラムに寄せた言葉の通り、因縁めいた演奏会となった。祈りの音楽が当時の重苦しさとともに記憶に残る。
札響の演奏会等で印象に残っている演奏家(楽団員も含みます)とそのエピソードをお書きください。
もうずいぶん前、コンサートマスターに若い女性が就任し、話題を呼んだ。その人は市川映子氏だったが、ほどなくして札響を去った。最近室内楽の演奏会で活躍される市川氏を数十年振りに拝見できた。厚生年金会館で定期演奏会を聴いていた若い頃に引き戻されたようだった。
その他、印象に残っている札響の活動がありましたら、お書きください。
定期演奏会(2008年9月、第511回)における尾高忠明氏指揮のオペラ『ピーター・グライムズ』の演奏。「オペラ不毛の地」と呼ぶ向きもあった札幌の音楽環境に札響が一石を投じた。演奏会形式でよいので、定期演奏会やオペラ専門の新シリーズなどで、プロならではの積極的なオペラへの取り組みを望む。
〝還暦〟を迎えた札響へのメッセージをお願いいたします。
・札幌市民や道民に親しまれる練度の高いオーケストラとして益々発展してほしい。
・過去の破綻危機の教訓を忘れず、楽団運営にあたってほしい。
札幌市在住 70歳(会員)
札響の演奏会で最も印象に残っている演奏会とその理由をお書きください。
第603回定期(2017年9月)。指揮:下野竜也、チェロ:宮田大の『チェロと吹奏楽のための協奏曲』。クラシックらしからぬパワーアンプ装備のドラムス、ギター、コントラバス、チェロとオケという珍しい組み合わせが面白かった。バンダナを巻き、花をつけ、長髪……という団員の姿も、いつもと違って楽しんだ。下野さんの「私がやるからにはフツーで済むはずがない!」というMCが入る、異色の定期でした。

第640回定期(2021年9月)。コロナ禍でようやく来日したバーメルトによる未完成とブルックナーの7番はゾクゾクするような名演でした。
札響の演奏会等で印象に残っている演奏家(楽団員も含みます)とそのエピソードをお書きください。
全道の市町村を回ったこと、アウトリーチ活動。
〝還暦〟を迎えた札響へのメッセージをお願いいたします。
更に精進して、日本中をトリコにして欲しい。
札幌市在住 72歳(会員)
札響の演奏会で最も印象に残っている演奏会とその理由をお書きください。
2020年8月6日の日記から (コロナ緊急事態後)久しぶりの演奏家、札響と尾高さんと辻さん(ヴァイオリン)座席の移動等、不便、不自由を乗り越え、生のコンサートはやはり感動、嬉しい。最初の一音で「新鮮に生音(なまおと)ダー!」
札響の演奏会等で印象に残っている演奏家(楽団員も含みます)とそのエピソードをお書きください。
何年前か、指揮者の名前も忘れました。リハーサルから本番の間に転倒、足の骨折とか……。座席が前だったので、足の張れも見え痛々しかったです。デモ、コンサートをやるプロ魂に感激! 札幌人として雪の悪路に申し訳ないような。
その他、印象に残っている札響の活動がありましたら、お書きください。
コロナ緊急事態宣言中のテレビ、打楽器奏者の活動(その後、個人的に拍手を増やしました)、コンサートマスター田島さんの素顔、札響の広告のためあちこち車で廻る姿など。
〝還暦〟を迎えた札響へのメッセージをお願いいたします。
20代(50年前)にも、定期演奏会に通っていました。その後、いろいろなジャンルのコンサートに行きましたが、札響と離れていました。70代の今、札響会員となり、主人と楽しんでいました。今年6月に主人を亡くし、音楽の力に癒されます。主人も聴いていると思います。応援しています。
札幌市在住 61歳(会員)
札響の演奏会で最も印象に残っている演奏会とその理由をお書きください。
2006年11月11日、第493回定期。尾高忠明指揮~マーラー交響曲第5番。福田さんの力強い完璧なファンファーレに始まり、気迫のこもった全楽員の演奏にすぐに引き込まれました。大平さんリードによる美しくも情熱的なアダージェット。フィナーレは輝かしく、札響パワー全開のすばらしいマーラーで、世界のどこに出しても恥ずかしくない立派な演奏でした。よくぞここまで成長してくれた(偉そうにすみません)と感無量で目頭が熱くなりました。
札響の演奏会等で印象に残っている演奏家(楽団員も含みます)とそのエピソードをお書きください。
上記と同じ演奏会。フルート独奏:エマニュエル・パユ。イベールとアンコールのドビュッシーで聴かせた輝かしいテクニックと澄んだ美しい音色はもちろんのこと、超低音でのドスの効いた図太い音の迫力に圧倒され、鳥肌が立ったことを覚えています。
その他、印象に残っている札響の活動がありましたら、お書きください。
初期の「グリーンコンサート」。1978年の第1回は2万人、1979年と1980年は4万人が道庁赤レンガ前に集まりました。私は1980年に聴きましたが、こんなに音楽を、札幌を愛している人たちがいることに感動しました。最近のキタオンは2度行きましたが、お客さんも少なく、初期の熱気は感じません。また道庁赤レンガ前(Tシャツではなく、白タキシードです)での復活を希望します。
〝還暦〟を迎えた札響へのメッセージをお願いいたします。
創立60周年本当におめでとうございます! 先日の第640回定期(2021年9月)は本当にすばらしく感動しました。ある定期演奏会の帰り、私の前をゾロゾロ歩くお客さん達を見て、ショックを受けました。そのほとんどの方が老人だったのです(私も61歳ですが、気持ちは若いつもりです)。道新で定期会員の数がピーク時から700人も減っていると知り、黙ってはいられず、少々辛口のメッセージをさせていただきます。

何年か前の尾高さんのブルックナー、マーラー、エリシュカさんのシリーズを除いて最近心から感動するコンサートが少なくなったような気がします(先日の第640回定期は本当にすばらしく感動しました!)。首席奏者の東京流出があったとはいえ、演奏技術、レベルは高いのに〝何か〟が足りなく感じるのです。経営危機を皆の渾身の努力で乗り切った後や、ヨーロッパ公演後の危機感、緊張感、気迫が今回のコロナ禍の状況下においても少し薄れているような気がします。

小学生対象のファースト・コンサートを単に「Kitaraで生のオーケストラを聴いた、スター・ウォーズを聴いた」で終わらせてはいけません。大人のプロ演奏家の真剣さ、本気さ、一生懸命さを見た目でも伝えて、子供たちに「札響ってすごい!!」というインパクトを植え付けなくては今後につながりません。目の前で、ウィーン・フィル、ベルリン・フィルを聴いたとき、Kitaraでもそうでしたが、特に2011年サントリーホールでのマーラーの9番では、その音色、音圧、音楽に感動したのと同じ位、弦楽器奏者が体全体で、全弓で弾く姿、オーケストラ全体が波打つように〝うねって〟いるのを見るだけで、とても感動し、胸が熱くなりました。大平さんの本でも、音だけではなく、見た目でも訴えることの重要性を書かれています。

私が感じていることは、曲のクライマックスでこちらの気持ちも高揚しているfff部でも、何人かを除いておとなしく弾いている姿を見て、少し冷めてしまうことがあります。自分たちプロが素人に弾き方をとやかく言われるのは心外だ、と思われるかもしれません。私も、皆様がどんなコンサートでも毎回真面目に一生懸命演奏されていることは十分わかっています。それでも、この曲のここぞという場面では弦が軋もうが音が少々濁ろうが、体で、全弓でアピールしてほしいのです!

このことは絶対に音に、音楽に現れ、聴衆の心にも訴えます。決して「音のきれいな秀演をするオーケストラ!」を札響の伝統とせず、「熱く燃えるオーケストラ!」であってください。若く、優秀な楽員さんも増えた今、「名ホールに名オーケストラ在り!」通り、「Kitara に札響在り!」です。札響はバーミンガム、ミュンヘン・フィル、シンシナティクラスには十分になれると思います。
※谷口さんの〝初夢〟はどの位達成しているでしょう?

★初夢の札響 谷口静司
 一九八☆年○月×日―今日は札響の第※○○回定期演奏会である。創立の一九六一年から一九七九年ごろまでの小型だった札響を〝今の〟時点で、対比的に懐古しようという企画で、今日の定期演奏会はもちろん、今季は全部大編成の作品ばかりを並べてある。ストラヴィンスキーの「春の祭典」。五管の超大型編成を自前の楽団員だけでまかなえるのはスペア?の多い歌劇場管弦楽団だけで、いわゆるシンフォニー・オーケストラはどこでもエキストラを必要とする。それにしても〝今の〟札響は大きくなったものだ。「春の祭典」にこの〝トラ〟が十人程度とは。
 北海道初演の時の「春の祭典」を思い出す。在京の友好オーケストラである○○フィルの北海道演奏旅行を利用して行った演奏は、本当に画期的白熱的名演だった。あのころの札響は管楽器群こそ三管編成にはなっていたけれど、弦楽器群は六五四四三とまだまだ少なかったっけ。六五四四三というのはちょっと専門的な表現だが、要するに第一バイオリンからコントラバスに至る弦五部がそれぞれ十二人十人八人八人六人ということである。
 八七六五四、標準四管編成の〝今の〟札響になるまでの道程は長かったともいえるし、あっけないほど短く平たんだったとも思える。〝これ〟までに札響を指揮してくれた大指揮者たちで既に鬼籍に入った人もいる。ベームの時、カラジャンの時、ステージと客席が一体となったすばらしい演奏会だった。
 わがマエストロ・イワキも札響とN響の音楽監督として常任期間の記録を更新しつつあるが、西ドイツの☆☆フィルとアメリカの※※シンフォニーのシェフ(常任指揮者)も兼任しているので、超多忙なことは相変わらずだ。
 最近、おもしろいことに気がついた。一九七九年ころまでの札響が新聞に載るのは、だいたい社会面が圧倒的に多かった。〝今〟は、いつも学芸欄とか芸能欄に載る。演奏内容が〝以前〟とは比べものにならないほど質的向上を果たした〝いま〟、札響のことが〝以前〟ほど社会面を飾らなくなったのは非常に暗示的だ。
 毎月一回だった定期演奏会が〝今〟では毎月六回。千六百人の市民会館からあふれて厚生年金会館にフランチャイズを移した一九七五年当時や、二千三百人の〝厚年〟を満席にして待望の毎月二回定期を目指した一九七九年ごろが懐かしい。
 札響は管楽器に名人が大勢いる、と〝以前〟からいわれていた。当時からソロやアンサンブルでも活躍していた名手たちが、ますます充実した演奏で市民の敬愛を受けている。放送やレコード録音が多くなったので、全国からファンレターが舞い込む。近ごろは弦楽器の連中も弦楽四重奏団を三つも組織してジックリがんばっているし、もちろんソリストとして団外活動をすることも多い。
 札幌市郊外の○○館をベースにした夏の「札幌音楽祭」も、〝今〟では世界的に有名なものに育った。毎年最終日恒例の道庁赤レンガ前コンサートは、札響と小林道夫氏を中心として世界の名手が参加することで野外演奏会として最高にゼイタクなものだろう。それというのも、一九七八年九月に二万人という文字通り空前の聴衆を集めたグリーンコンサートが各界から支持された賜物である。
 札響が出来たてのころ、せっかく〝東京の〟音楽大学を出て〝札響なんか〟に行けるものかという風潮が、くやしいけれどあった。札響の楽団員の弟子連中が東京などの音大に行って卒業後は札響に入団、という傾向が目立ち始めたのは七〇年代のなかばくらいからだったろう。札響の名手たちが教授を兼務している札幌芸大の音楽学部に、全国から札響の先生に習いたくて受験しにくる人が大勢いても当たり前すぎて報道されなくなった。
 さて今年も繰り返す。フェスティナ・レンテ、ゆっくり急いで、と。(札響常務理事)
――1979年1月4日、北海道新聞夕刊 北海道新聞社許諾D2204-2304-00024903