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札幌交響楽団

札幌交響楽団

History 1961 - 2021

1988年4月8日 初顔合わせした札響指揮者陣 左から小松一彦 秋山和慶 堤俊作 高関健の各氏
第4章 秋山和慶が広げたレパートリー
[1988 - 1998]

東京公演の定例化

 秋山和慶が舵取りを担った10年の間に、日本経済は成長から失速へと移っていった。そんな中にあって秋山は、レパートリーをさらに広げて東京公演を定例化させ、「名曲シリーズ」をスタートさせた。札幌コンサートホール Kitaraが新たなホームグラウンドとなって札響と歩を進め始めた。

1988年

 2月、首席客演指揮者の秋山和慶をミュージック・アドヴァイザー兼首席指揮者とする4月からの新体制が発表された。岩城宏之は音楽監督から桂冠指揮者となる。秋山を支える専属指揮者は3人で、堤俊作、小松一彦、高関健。いずれも、秋山にもつらなる、桐朋学園大学での斎藤秀雄門下の実力派だった。

 秋山が札響の定期演奏会を初めて指揮したのは、さかのぼること20年の1968年9月。まだ27歳だった。プログラムは、プロコフィエフの交響曲第1番『古典』、ドヴォルジャーク『弦楽のためのセレナード』、そしてショスタコーヴィチの交響曲第1番である。このときの札響の印象を秋山は、「良い意味でまだ場慣れしていないフレッシュな音楽集団だった」という。

 ミュージック・アドヴァイザー兼首席指揮者となった秋山は、「岩城さんが広げたレパートリーのレンジをさらに広げることを意識した」と語る。「当時の札幌はバルトークの『管弦楽のための協奏曲』にも一部で拒絶反応が出る時代。私はニールセンやグリエールなど、札幌の皆さんに幅広い音楽を楽しんでいただこうと考えました」

 3人の専属指揮者たちの意気込みはどうだっただろう。北海道新聞(1988.2.18夕刊)には、就任に当たりこれから札響と演奏したい曲として、堤は「好きなドイツ音楽を、マーラー、ブルックナーはじめ、ベートーヴェンやブラームスも」、小松は「現代曲や合唱入りの大曲、オペラ」、高関は「有名だが意外に演奏されていない曲を」と答えている。

 3月には、コンサートマスターのマイケル・キシンが、メルボルン交響楽団に戻る。後任には、新星日本交響楽団(2001年に東京フィルと合併)のコンサートマスターだった深山(みやま)尚久が首席コンサートマスターとして就いた。

 この月、余市、仁木、積丹、古平、赤井川5町村の人たちが中心になって結成した北後志札響公演実行委員会による「第1回札響北後志定期演奏会」が開かれた。年度が改まった年内8月に第2回。以降年に1回の演奏会を重ねていく。

 

 4月定期は、専属指揮者のトップバッターとして高関健が担った。プログラムは、モーツァルトのピアノ協奏曲第18番(ピアノ:迫昭嘉)とブルックナーの交響曲第7番だった。新コンサートマスターの深山もこの定期から札響の顔となる。

 5月には堤俊作が定期初登場。ドヴォルジャークのチェロ協奏曲(チェロ:オーフラ・ハーノイ)とチャイコフスキーの交響曲第5番を披露。

 

1988年6月20日 第293回定期演奏会(北海道厚生年金会館) 秋山和慶(指揮)

 

 7月定期には小松一彦が指揮台に立ち、吉松隆のギター協奏曲『天馬効果』(ギター:山下和仁)、R.シュトラウスの歌劇『ばらの騎士』組曲などに取り組んだ。

 この夏の札幌でのグリーンコンサートは、道庁赤れんが庁舎竣工100年を記念した「赤レンガ100年祭」とのタイアップとなり、6年ぶりの会場での演奏(指揮:南安雄)に1万6000人の市民が集まった。

 8月には岩城宏之が前年度にサントリー音楽賞を受賞した記念の特別演奏会が、東京のサントリーホールと大阪のザ・シンフォニーホールで行われた。プログラムは、武満徹の3曲、『弦楽のためのレクイエム』、『A Way a LoneⅡ』、『ウォーター・ドリーミング』(フルート:小泉浩)、そしてブラームスの交響曲第2番。4年ぶりとなった東京公演には、JR北海道が企画した「北斗星で行くサントリーホールで札響を聴く旅」で札幌からかけつけたグループの姿もあった。この旅行商品では、3月の青函トンネル開通で誕生した札幌―上野間の寝台特急北斗星で前泊し、サントリーホールで札響を聴くのが魅力となっていた。

 

 9月定期は秋山の指揮によるハイドンの『協奏交響曲』とエルガーの交響曲第1番。ハイドンでは首席奏者4人がソリストを務めた。深山尚久(ヴァイオリン)、土田英順(チェロ)、岩崎弘昌(オーボエ)、一戸哲(ファゴット)である。中でも1年間の西ドイツ留学から帰った岩崎と、コンサートマスター就任後初の独奏となる深山に注目が集まった。

 10月からは同じく西ドイツで1年間学んだ小野聡(ヴィオラ)も帰国し、成長ぶりを披露。また、首席チェロ奏者の土田英順に北方文化教育振興財団から第2回芸術賞が贈られた。

 11月、創立30周年を迎えた清水町のせせらぎ合唱団が、北海道新聞社と共催で札響との協演コンサートを開いた(清水町文化センター。指揮:小松一彦)。清水町での合唱団との協演は1980年の「第9」に始まり、85年には再演があった。今回はOBも含めて70人を超える合唱団が編成され、地域の大きな話題となった。

 12月定期では、秋山がニールセンの交響曲第4番『不滅』などを演奏して注目を集めた。

 この年、3月に日本たばこ産業(JT)により設立されたアフィニス文化財団からハープ購入費用の半額290万円の助成を受けた。同財団からはその後も楽器購入助成(コントラファゴット)、公演助成、楽団員の研鑽支援を現在まで受けている。

 
 

1989年

 2月、札響は、アマチュアオーケストラ帯広交響楽団とフレンドオーケストラの提携を結んだ。これはコンサートマスターの深山尚久らのメンバーが定期的に帯広を訪れ、演奏指導や運営方法への助言をする取り組み。十勝各地での札響演奏会のリハーサル公開や帯響へのソリスト派遣も含まれ、札響メンバーによる室内楽演奏会も計画された。帯広訪問は4月から実施された。

 

 3月、札響は初めて、東京、名古屋、大阪の連続公演を自主事業として行った。タイトルは協賛者の名を入れた「ホクレン・シンフォニー・コレクション」。指揮は秋山和慶で、プログラムは武満徹「『乱』のテーマ」、ショパンのピアノ協奏曲第1番(ピアノ:清水和音)、エルガーの交響曲第1番。ホクレンには、札響とクリーン農業のイメージが北海道の農産物の売り上げにつながってほしいという期待があり、北海道企業が道外に売り出す手段として札響は切り札的存在となっていた。以後、東京と大阪は毎年3月の開催が定例となる。

 

 そのツアーから戻ると3月の定期演奏会。300回を記念して2日間にわたる「札響祭」が開催され(2日目は301回定期演奏会)、荒谷正雄、堤俊作、小松一彦、秋山和慶の4人が指揮台に立った。

 モーツァルトのセレナード第8番『ノットゥルノ』は、分かれて座を占めた4つの小オーケストラをそれぞれが指揮してひとつの曲にまとめる趣向の曲で、会場を沸かせた。荒谷の登場は74年1月定期以来14年ぶりのことで、ひときわ熱い拍手が寄せられた。また秋山が指揮したレスピーギの交響詩『ローマの松』では堤がコントラバス陣に加わった。

 定期演奏会300回をテーマに、北海道新聞は社説で札響を取り上げた(1989.3.20)。

 札響の実績と秋山の舵取りの奮闘を評価しながら、「内外から一流のプレーヤー、客演指揮者を招き、全ステージを武満徹の作品でまとめたり、映画『乱』の音楽や外国、本州公演もこなす札響は、確かに地方交響楽団連盟に所属する全国10の交響楽団の中では飛び抜けた実力を持っている。が、地元ではあまりに身近な存在になり過ぎて、聴く側に、発足当初の感激を忘れた安易さがありはしないか。もはや名前の売れた外国人の演奏会だけを妙にありがたがる時代ではない」と書く。そしてこう締められる。

 「札幌でも音楽家や愛好家が北海道国際音楽交流協会(ハイメス)を組織、また北海道音楽団体協議会も生まれた。こうした団体を軸に、幅広い音楽活動を支援する『文化基金』の発足がぜひ必要だと思う。札響が『世界の札響』となり、その活動を国や自治体ばかりでなく、道民が支え合う。そんな日は来ないものか」

 記事中の地方交響楽団連盟とは1972年に設立された東京以外のオーケストラが加盟した団体で、東京のオーケストラによる日本交響楽団連絡会議と翌90年に日本オーケストラ連盟に統合される。

 

 3月にはもうひとつ話題となったコンサートがあった。「オーケストラ・バスやまを走る」である。

 戦後の北海道経済を牽引していた炭鉱はエネルギー革命の激流に飲み込まれ、世の中の好況とはうらはらに、合理化と閉山が相次いでいた。このコンサートは、沈む産炭地に音楽をという思いが込められた企画だった。

 演奏旅行はいつもなら現地集合・現地解散だが、このときは、北海道中央バスの協力で全員がバス2台に乗り込んで移動した。声帯模写の江戸家小猫(現猫八)も出演し、曲はパクストンの『動物園へ行こう』、チャイコフスキーの『白鳥の湖』など動物にちなんだものが用意された。指揮は小松一彦。料金も大人1000円、小中高生500円と低く抑えられ、両会場とも老若男女の熱い熱気に包まれた。本番前、管楽器奏者たちは中高生の吹奏楽の指導も行った。

 

追い風を受けて

 

 5月、新理事長に北川日出治北海道新聞社社長が就任した。

 6月、初めてのCDが発売された。FM北海道が「札響アワー」用にデジタル録音した前年5月の第292回定期演奏会ライヴ盤で、堤俊作指揮によるチャイコフスキーの交響曲第5番(東芝EMI)である。清冽な北国のオーケストラの響きが好評を博し、月刊レコード社「全国クラシックCDトップ20」で6月4週には国内盤のトップとなる11位を記録した。短期間に8500枚を超える、クラシック音楽としては記録破りの売り上げを達成した。

 6月末から始まったグリーンコンサートは名寄、浦河、札幌、弟子屈、北見を会場に、南安雄の指揮で開催。札幌は前年の「100年祭」を受けて始まった「赤レンガ音楽祭」の一環となった。

 7月、開基90年の浦幌町で、「札響とうたう100人の会」が佐藤眞作曲『大地讃頌』などを札響と協演し、地域の記念すべき節目に猛練習の成果を披露した。

 東京・渋谷に、コンサートホール、劇場、映画館、美術館などが一体となった複合施設Bunkamuraがオープンしたのは8月末のこと。9月定期のプログラムから、札幌に音楽専用ホールを建設するための市民運動を計画していた山科俊郎(北海道大学教授)のシリーズエッセイ「札幌に専用の音楽堂の建設を」が始まった。

 この月、10年間首席を務めてきたヴィオラの奥邦夫が退団した。46年に進駐軍のためのオーケストラに入って以来、41年間の演奏生活のうち39年間首席奏者を務めた音楽人生だった。

 9月、ヴィオラの水戸英典がアフィニス文化財団の派遣留学生として1年間オーストリアに渡った。

 11月定期は、この年4月から3年間の計画で始まった山田一雄指揮によるベートーヴェンシリーズの2回目。ピアノ協奏曲第5番『皇帝』(ピアノ:野島稔)と交響曲第3番『英雄』というプログラムで、2300席の北海道厚生年金会館がほぼ満席となった。この好調は翌12月定期でも続き、秋山和慶によるラフマニノフのピアノ協奏曲第3番(ピアノ:中村紘子)、グリエールの交響曲第3番『イリヤ・ムーロメッツ』の演奏もほぼ満席の聴衆に恵まれた。「第9」の前売りも好調で、事務局では定期のたびに出していた楽員の家族招待券を廃止することにした。

 

■ミニコラム 2つの「北の大地」

 札響が初演した中に、北海道を象徴的に示す言葉「北の大地」をタイトルとした曲が2つある。ともに歌が入り、私家版のライブCDが作られたことも共通している。

 先行したのはカンタータ「土の歌」で知られる佐藤眞の交響詩「北の大地」(作詞・阿久悠)で、1990年6月に札幌・北海道厚生年金会館で開かれた石狩川治水80周年記念式典で初演され、91年9月の北海道社会科教育連盟創立40周年記念演奏会、2003年8月の「北海道遺産『石狩川』を語る シンポジウム&札響コンサート」、10年11月「石狩川治水100年記念コンサート」でも演奏された。

 もうひとつ、栗山和樹の交響曲「北の大地」は北海道国際音楽交流協会(ハイメス)設立15周年記念作品で、2003年12月に札幌コンサートホールで披露演奏会が行われた。

 栗山はNHK大河ドラマ「北条時宗」のテーマなどを作った作曲家で、開拓の先人をたたえ、不屈の道産子魂をうたった詩はハイメス理事長の河邨文一郎(詩人、札幌医大名誉教授。1917-2004)が書き下ろした。後に一部の歌詞と譜面に若干修正が施され、タイトルも「北の大地・北海道」に改められた。

 
 

1990年

 1月、北海道拓殖銀行の主催による「たくぎんニューイヤーコンサート」が始まった(指揮:小松一彦)。金融機関の広告自主規制が緩和されて実現した道内行初の冠つきイベントで、第一線の歌手により演奏会形式でオペラの世界を紹介する無料コンサートである。

 3月には北海道銀行の主催による「道銀ライラックコンサート」もスタートした。札幌銀行(89年に普通銀行に転換し北海道相互銀行から名称変更)もまた、創立40周年を記念して札響のCD5000枚(チャイコフスキーの交響曲第5番)を関係先に贈った。

 この間、2月には仙台フィルハーモニーと仙台で初のジョイントコンサートを開催(宮城県民会館)。約120人の大編成で、外山雄三指揮によりワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』前奏曲、マーラーの交響曲第1番『巨人』などを演奏した。

 3月には、毎日新聞社の記念事業で、マーラーブームを受けた札響・名古屋フィル合同による交響曲第8番『千人の交響曲』の演奏会が行われた(北海道厚生年金会館、指揮:高関健)。またこの月、札幌で開催された第2回アジア冬季競技大会の閉会式で演奏した(札幌市民会館、指揮:高関健)。72年札幌オリンピックの芸術行事は独立したコンサートだったから、スポーツの国際大会のセレモニーへの出演は、初めてのこと。一般市民向けの席で「札響を聴きながらアジアの仲間との別れを」と、組織委員会が呼びかけたところ、定員を超える応募があった。35分ほどの演奏の最後は外山雄三の『管弦楽のためのラプソディ』で締めた。

 同月の大阪・東京公演は秋山和慶の指揮で、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番(ピアノ:中村紘子)、シベリウスの交響曲第2番を演奏した。東京・サントリーホールでの公演は完売となる盛況だった。

 

 4月、札幌青年会議所などによる、市民の手で札幌にふさわしい交響詩を作ろうという「交響詩―札幌の会」の活動が本格化した。市民に広く歌われ、また世界に向けて発信できる交響詩をと、札幌音楽家協議会など14団体が参加した。

 曲は世界中からの公募とし、最優秀作は92年夏に札響の演奏で発表する計画で、審査委員長は伊福部昭。91年末の締め切りまでに、外国からの3点を含め20曲が寄せられた。

 札幌青年会議所は70年代末から「都市文化委員会」を設けて「札幌の文化を考える」運動に取り組んでおり、この運動には札響に市民の関心を向けさせようという狙いもあった。『交響詩―札幌』1小節オーナー(1口3000円)の募集もその一環だったし、一連のアイデアの中に、札響をひとつの核とした「札幌芸術の森」構想も生まれていたのである。

 

PMF始まる

 

 6月から7月にかけて、札幌芸術の森を主会場に、レナード・バーンスタインを中心とした国際教育音楽祭パシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)が19日間にわたって開かれた。世界の才能豊かな若い音楽学生を札幌に集めてオーケストラを編成し、バーンスタインらの指導による成果を披露しようというものだ。プロデュースしたのはバーンスタインとの太いパイプをもった東京の音楽事務所ナサで、野村證券をはじめとした有力スポンサーが支援した。

 当初は中国の北京が開催予定地だったが、天安門事件(1989年6月)発生の不穏な政治状況を避け、準備も不十分なまま、夏が過ごしやすく優れた練習場(札幌芸術の森)がある札幌での開催が急きょ決まったのだった。

 第1回のPMFでの札響のコンサートは2回あった。会期半ばの7月9日にはPMFレジデントコンダクター大植英次の指揮でバーンスタインの『波止場』、ブラームスの交響曲第2番などを演奏(北海道厚生年金会館)。14日、札幌芸術の森野外ステージでの最終演奏会では、こちらもレジデントコンダクターのリーフ・ブヤランドの指揮で、ベートーヴェンの「第9」を演奏した。合唱は札幌放送合唱団と札幌アカデミー合唱団。独唱は佐藤しのぶ(ソプラノ)、青山智英子(メゾソプラノ)、小林一男(テノール)、木村俊光(バリトン、札幌出身)。札響にとって初めての野外での「第9」だった。

 

1990年7月14日 PMF1990 札幌交響楽団演奏会(札幌芸術の森野外ステージ) リーフ・ブヤランド(指揮)

 

 バーンスタインは10月に死去したが、板垣武四市長は、その遺志を受け継ぎ、札幌市が運営を担ってPMFを継続させることを発表した。このあとPMFは道都の文化事業の核として成長していくが、開始のときの齟齬から生まれた札響との不協和音はしばらく尾を引いた。

 

 8月にはもうひとつ国際イベントが行われた。テューバの香川千楯らが中心となった 「国際テューバ・ユーフォニアム札幌大会」である。こちらはPMFに先行して企画され、札幌市でも十分な準備が重ねられていた。札響では、この大会に出演するブライアン・ボーマン(ユーフォニウム)とウォーレン・デック(テューバ)を定期演奏会に迎え、アンソニー・ヴァッツァーナのユーフォニウムのための『コンチェルト・サッポロ』ほかを演奏した。

 この大会の米国以外での開催は初めてのことで、札幌市教育文化会館を舞台にした6日間の会期中、海外からの40人をふくむ400人以上の奏者が参加した。

 8月にはCDの第2弾として、秋山和慶指揮によるシベリウスの交響曲第2番が札幌のファンダンゴレコーズから発売された。去る3月、大阪のザ・シンフォニーホールでのライヴ録音である。

 

 JR池北線を引き継いで前年6月に開業した「ふるさと銀河線」(池田―北見)を盛り上げようと、池田、本別、足寄、陸別という十勝東部の沿線4町が連携し、札響による「ふるさと銀河コンサート」を持ち回りで開催することになった。グリーンコンサートなどの好評を受けて「わがまちにも札響を」という声が高まってのことで、事業費は主催町が半分強負担し、残りは北海道新聞社の助成と、入場料収入でまかなう。その第1回が9月、足寄西小学校で開かれた。(演奏会は91年本別、92年池田で開催して終了し、鉄道は2006年に廃止された)

 9月にはまた、渋谷Bunkamuraの1周年企画、オーチャードホールの「日本のオーケストラシリーズⅡ」に招かれ、武満徹『A Way a LoneⅡ』、チャイコフスキーの交響曲第1番『冬の日の幻想』ほかを演奏した(指揮:秋山和慶)。1周年にちなみ、参加オーケストラすべてがいろいろな作曲家の交響曲第1番を演奏する企画だった。

 11月、およそ10年間事務局長として札響の舵を握ってきた竹津宜男が退職し、札幌芸術の森職員としてPMF準備室に出向となった。札幌市は突然舞い降りてきた大イベントPMFを運営していくため、翌91年1月にPMF組織委員会を発足させ、竹津はそこで、これまでのキャリアとノウハウを生かしていくことになる。札響事務局長の後任には、ヴィオラ奏者で楽員組合書記長、委員長も歴任していた高橋研一が就いた。

 90年12月、日本芸術文化振興会は、3月に設けられた「芸術文化振興基金」の助成対象活動を発表した。国と民間が拠出した約600億円の運用益で活動団体を援助するもので、申請780件、選定446件の中に札響の道内巡回公演も選ばれた。

 

■ミニコラム PMF始まる

 1990年6月に始まったパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)は、20世紀を代表する音楽家レナード・バーンスタインの提唱により創設された。世界の若手音楽家育成のための国際教育音楽祭である。教授陣はロンドン交響楽団、ウィーン・フィル、ベルリン・フィルの楽員など。世界各地からオーディションで選ばれたアカデミー生が約1ヵ月間、札幌芸術の森を主会場に研修と演奏会漬けの日を送る。

 札響は野外の「第9」公演を行うなどした初回以降毎年参加しており、94年の「キャンディード」、95年の「オン・ザ・タウン」日本語版初演(演奏会形式)といったバーンスタイン作品の演奏も行っている。年毎の企画に応じてPMFアカデミー生との合同演奏の機会も多く、2005年からは開幕日の「PMFウェルカムコンサート」を定着させて、ホストシティのオーケストラとしての存在感を打ち出している。

 

1991年

 2月の定期では高関健が、88年12月の秋山に続いてニールセン(交響曲第6番『シンフォニア・センプリーチェ』)を取り上げた。

 3月には再び仙台フィルハーモニー管弦楽団とのジョイントコンサートが今度は札幌で開かれ、マーラーの交響曲第6番『悲劇的』などが演奏された(指揮:田中良和、北海道厚生年金会館)。

 

1991年3月19日 札響・仙台フィル ジョイントコンサート(北海道厚生年金会館) 田中良和(指揮)

 

 4月、創立30周年を機に札響基金が創設された。財政基盤の確立と近・現代の大曲が自前で演奏できる4管編成90人体制への拡張をめざし、5年間で10億円、10年間で20億円を目標に募金活動が始まった。

 この月さっそく国際ソロプチミスト札幌から、認証20周年記念「札響の夕べ」(北海道厚生年金会館)の開演前、北川日出治理事長に500万円の寄附が手渡され、基金はこの時点で約1600万円となった。

 またこの4月、山下暁子が入団して父山下浩司との親子ヴァイオリン団員が誕生し、ニュースとなった。

 5月、創立30周年記念演奏会「北海道の作曲家たち『北の楽想』」を札幌市教育文化会館で開催。早坂文雄、廣瀬量平、間宮芳生、伊福部昭の作品を取り上げた。指揮は小松一彦。廣瀬のヴァイオリン協奏曲の独奏には、79年にこの曲を初演した黒沼ユリ子が招かれた。この演奏会には北洋銀行(前年2月の普通銀行転換で北洋相互銀行から商号変更)が協賛した。

 8月、89年4月から定期演奏会で3年間9回のベートーヴェンシリーズに取り組んでいた山田一雄が心筋梗塞のために78歳で急逝。残された2回は矢崎彦太郎と佐藤功太郎が代役を務めて完結させ、交響曲の録音は6枚のCD(ファンダンゴレコーズ)となって、年末から翌年にかけて順次発売された。

 

創立30周年

 

 30周年となった9月定期にはペーター・シュヴァルツが16年ぶりに登場。特別な思いを抱くブルックナー作品の中から交響曲第8番を演奏した。終演後は会員もまじえて、懐かしいシュヴァルツを囲むパーティが開かれた。

 

1991年9月6日 第328回定期演奏会(北海道厚生年金会館) ペーター・シュヴァルツ(指揮)

 

 30周年に当たり、創業120周年になる札幌の老舗百貨店丸井今井から、男性楽員にタキシード、女性楽員にブラウスが贈られた。

 この月から、定期演奏会のプログラムで「北海道メセナ」という企業紹介シリーズが始まっている。初回はこの年創業100周年を迎えた秋山愛生舘(医薬品卸業。現スズケン)。同社は10月に記念事業として札幌、帯広、旭川、函館で「札響ハートフルコンサート」を開催し、北海道出身の若い才能を応援する趣旨で、プログラムには田部京子(ピアノ、室蘭出身)と金木博幸(チェロ、札幌出身)を迎えての協奏曲が組まれた。

 この年創立40周年の北海道銀行は、これを記念して道銀文化財団を設立した。

 

 10月、北海道の芸術文化の振興に貢献してきたことが評価されて北海道開発功労賞を受賞した。

 HBCが創立40周年を記念して委嘱した三枝成彰(さえぐさしげあき)のヴァイオリン協奏曲が11月、ほくでんファミリーコンサートで発表され(指揮:堤俊作)、のちに『雪に蔽われた伝説』というタイトルが付けられた。ソリストはコンサートマスターの深山尚久。この演奏会では三枝が補筆して完成させたモーツァルトの『ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための協奏協奏曲』も道内初演された。また年が明けた92年1月には、同社から札響基金に500万円が贈られた。

 12月定期は、創立30周年と没後200年のモーツァルトイヤーを締めくくる、秋山の指揮によるモーツァルトのレクイエム。またこの月には、札響30年の全演奏曲目が28ページの冊子にまとめられた。

 

インタビュー

懐かしきは、北24条の灯

深山尚久(元首席コンサートマスター)

 

 僕の札響時代は、1988年5月からの4年間になります。札幌に来たときは32歳。東京で生まれ育ち、留学をのぞいては東京でしか暮らしたことがありませんでした。一度違う環境で音楽と取り組みたいと思っていたので、竹津事務局長からお誘いをいただいたときは、ふたつ返事でお受けしました。

 札幌に来たのは生まれて初めて。若かったしのびのびと仕事ができて、僕にとっては忘れがたいひと時代ですね。バブル経済の真ん中で、世の中もなんだか元気だった。入ってみて札響の第一印象は、みんなが音楽に疲れていないこと。そして暮らしの基盤がしっかりあるな、と思いました。どちらも東京では難しいことです。

 静かなところに住みたいと思って不動産会社に勧められるままに選んだマンションが、厚別。メンバーにはあきれられました。そこで2年目は円山あたりに住んでやろうと思ったのですが、結局落ち着いたのは北24条界隈。にぎやかで楽しい日々が繰り広げられました(笑)。

 こんなエピソードがあります。定期で秋山先生がいらしたとき、家の近くの行きつけの居酒屋にお連れしたのですが、そこの大将が「オレが好きなクラシックはただ1曲。ブラームスのハンガリー舞曲の5番だ。なぜならそれしか知らないから」なんて言うのです。ならばとばかりに秋山さんはアンコールにそれをやることにして、ゲネプロに大将を呼んだのです。誰もいない客席で、彼はたったひとりで、札響が大好きな曲を演奏するのを聴きました。目をまん丸にしてね!

 学校の体育館での音楽教室なども一生懸命やりました。帯広や女満別などで生まれたアマチュアの方たちとの交流は、いまでも続いています。こうしたことは、結局札響や北海道の音楽のためにもなる、と考えていたのです。

 

■ミニコラム 主催者委嘱作の初演

 札響が初演した曲の中には、主催団体の委嘱作もある。

 1990年8月、「’90国際テューバ・ユーフォニアム札幌大会」出演者を招いた第316回定期演奏会ではアンソニー・ヴァッツァーナ「コンチェルト・サッポロ」、91年11月の第240回ほくでんファミリーコンサートではHBC創立40周年記念の三枝成彰のヴァイオリン協奏曲(「雪の蔽われた伝説」と題されてCDが発売された)、98年6月室蘭での特別公演では、北海道新聞社が土田英介(室蘭栄高校-東京芸大大学院修了、第53回日本音楽コンクール第1位)に委嘱した「ヴァイオリン協奏曲」を初演した。

 栗山町「札響ひなまつりコンサート」実行委は92年から5年間、北海道教育大学助教授南聡に委嘱した「管弦楽のための前奏曲『窓・花の訪れ』」などの初演・再演を重ねた。

 94年8月、帯広の特別演奏会で演奏した交響詩「十勝」(92年に帯広市開基110年・市政施行60周年を記念して十勝毎日新聞社が委嘱し帯広交響楽団が初演)は、札響のライブCDが海外でも発売されている。作曲のハンス・シュテーリはスイス生まれ、ドイツ在住。

 2004年5月の「札響シンフォニック・ブラス・コンサート」では中村達彦「ファンファーレ~札響シンフォニック・ブラスのための祝典序曲」、札幌大谷学園の周年記念演奏会では楽団が木村雅信教授に委嘱した「浄土讃歌からいちいちの華のなかよりは」(1976年11月の70周年)、カンタータ「妙好人のうた」(2006年12月の百周年)の初演も行っている。

 

1992年

 4月、4年間の契約満了で首席コンサートマスター深山尚久が退団。深山は最後の定期演奏会のプログラムに、札響での仕事は「生涯最大の印象を持つ日々」だったと書き、「北海道は第二の故郷になった」とつづった。

 5月の時点で札響基金は、先述分に加えて北海道空港から500万円など、3000万円以上が集まっていた。さらに北海道と札幌市がそれぞれ2カ年に5000万円ずつ、各1億円を拠出。企業では、北海道新聞社が創立50周年記念事業として年間6000万円、5年で3億円、ホクレンが2500万円、楢崎産業(現ナラサキ産業)が3年間で1500万円、拓銀、道銀各2000万円、道外企業でも王子製紙、十条製紙など製紙業5社が合わせて1億円の拠出を約束し、7億3000万円程度のめどがついた。

 さらに北海道市長会、同町村会が支援に前向きとなり、道経連、道商連、道経済同友会といった経済団体も会員に基金への協力要請文を送ってくれた。「北海道の発展に寄与を」という社団法人北海道倶楽部(東京)も会報で募金を呼びかけるなど、10億円の目標に向けて、動きは順調だった。

 

 8月、専属指揮者の堤俊作、小松一彦、高関健が退任する。

 9月から学校の完全週休2日制が始まり、授業時間確保のためにスポーツの催しや芸術鑑賞会をカットする学校が増えていく。

 10月には、18年ぶりの沖縄公演があった。宜野湾市の沖縄コンベンションセンターで行われた復帰20周年記念の文化庁芸術祭公演では琉球大学助教授中村透(別海出身)のオペラ『キジムナー時を翔ける』を演奏(指揮:佐藤功太郎)。翌日は沖縄市民会館で堤俊作指揮、田中晶子独奏でチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、ドヴォルジャークの交響曲第8番などを演奏し、両会場とも北国のオーケストラを迎える暖かな拍手に満たされた。

 

1992年10月10日 文化庁芸術祭1992オペラ公演のリハーサル前の様子 中村透『キジムナー時を翔ける』(宜野湾市・沖縄コンベンションセンターの舞台)

 

 10月、札幌市議会で音楽専用ホール建設が正式に決定され、ほどなく設計競技が開始された。

 

 11月、「トヨタクラシックス」で2度目の海外公演が実現する。トヨタ自動車が90年から始めていたもので、台湾、香港、インドネシア、シンガポール、マレーシア、フィリピンの東南アジア4カ国2地域で公演。指揮はすべて堤俊作。ソリストは田中晶子(ヴァイオリン)。ドヴォルジャークの交響曲第8番を軸にしたAプログラム、ブラームスの交響曲第2番を軸にしたBプログラムを組んだ。

 

1992年11月19日 札幌交響楽団ジャカルタ公演 トヨタクラシックス’92(インドネシア・サーイド・ジャヤ・ホテル) 堤俊作(指揮)

 

1992年11月22日 シンガポール・ビクトリア・コンサートホール

 

 12月、定期演奏会場(北海道厚生年金会館)での託児サービスが始まった。1歳以上の未就学児童が対象で、1人2000円。運営は日医ヒューマンバンクが当たった。

 この年の「第9」は、首席指揮者秋山和慶が初めて指揮をすることもあり、5年ぶりの2日公演となった。

 

■ミニコラム 「第9」のファンが全国から千歳に

 札響が毎年開くベートーヴェン「第9」演奏会の中でも、1992年9月に千歳で開かれたものはひとあじ違っていた。225人の合唱団には、地元「ちとせ『第九』を歌う会」のほか、全国から集まったメンバーが集っていたのだ。

 主宰は89年に結成された「全日本『第九を歌う会』連合会」。毎年全国各地で「第9」演奏会を開いており、この年は新千歳空港ターミナル開業を記念しての千歳開催だった。

 「第9」日本初演は1918年6月1日、第1次世界大戦で捕虜となったドイツ兵により、徳島県鳴門市大麻町(おおあさちょう)にあった「板東俘虜収容所」で行われた。1000人の捕虜の間で結成されていたオーケストラと合唱団によるもので、鳴門市は条例でこの日を「第九の日」と定め、82年から6月の第1日曜日に鳴門市文化会館で「第9」演奏会を開いている。

 収容所跡近くに建てられたドイツ館には「第九シアター」がある。2006年には「第9」の日本初演物語を題材にした映画「パルトの楽園(がくえん)」が公開された。

 

1993年

 2月、前年11月から客演首席奏者を務めていたヴィオラ奏者ヒュー・ラックリンが入団し、首席奏者となった。前任はシラキュース交響楽団(米国ニューヨーク州)の首席奏者である。

 3月、大阪・東京公演は共に盛況で、首都圏と関西圏での札響ファンの着実な増加を印象づけた。指揮はジェフリー・サイモン。プログラムはサン=サーンスのヴァイオリン協奏曲第3番(ヴァイオリン:前橋汀子)、ブラームスの交響曲第1番ほか。厚木でも、一部曲目を替えて公演した。

 7月定期は、アメリカ音楽特集という秋山ならではの構成で、アイヴズ『ニューイングランドの3つの場所』、バーバーのヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン:竹澤恭子)、バーンスタインの交響曲第2番『不安の時代』(ピアノ:羽田健太郎)。3回目となった仙台フィルハーモニー管弦楽団とのジョイントコンサートは札幌で開かれ、ショスタコーヴィチの交響曲第4番などが演奏された(指揮:外山雄三、北海道厚生年金会館)。

 8月には、ロータリー式のトランペット4本が道新サービスセンターから寄贈された。

 
 

 深山尚久のあと客演でつないでいたコンサートマスターには、10月から尾花輝代允(おばなきよみつ)、グレブ・ニキティンの2人が就いた。ルイ・グレラーなどに師事した尾花は、京響、読響のコンサートマスターを経ての就任。ニキティンはモスクワ生まれで、ザグレブ・フィル(クロアチア)コンサートマスターを経ての就任だった(98年10月から首席コンサートマスター)。

 10月、日本デザイナークラブ北海道支部創立30周年を記念した「秋冬コレクションwith札響」に出演(指揮:秋山和慶、北海道厚生年金会館)。フルオーケストラをバックにモデルたちがさっそうと登場するステージは大きな関心を集め、2回の公演に合わせて3500人が集まった。

 5月には本庄谷重雄(ヴァイオリン)、11月には上原与四郎(チェロ)と、最初期からの演奏を支えてきた奏者たちが定年退職を迎えた。

1994年

 1月、苫小牧で、札響定期演奏会ニューイヤーコンサートがスタートした(指揮:秋山和慶、苫小牧市民会館)。熱心な地元有志が実行委員会をあらためて組織して実現したもので、札響苫小牧定期公演事務局長の山下明は、北海道新聞への寄稿でこう書いた(1993.12.18)。

 「従来の演奏会はとかく曲目がポピュラーなものに偏りがちであった。毎年どのオーケストラが来ても同じような曲目につき合わされるのが実情である。その点定期演奏会ならば地元の要望を入れていくことができる。市民合唱団との第9やメサイヤなど今まで無理だった作品の演奏も可能になるだろう。夢は膨らむばかりである」

 札幌市外での道内公演は、このような熱心な受け入れ先にも支えられて、根を伸ばしていた。しかし音楽教室は減少気味で、事務局では、札幌市PTA協議会、小・中学校長会などに開校記念事業などでの開催を強く呼びかけていく。

 

 2月定期は、秋山の指揮により20世紀音楽を集めた意欲的なプログラム。ディーリアス『ブリッグの定期市―イギリス狂詩曲』、コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン:藤原浜雄)、ヴォーン=ウィリアムズ『南極交響曲』。どれも札響初めての曲である。

 3月の東京・大阪公演は3月定期と同じプログラムで、札幌の姉妹都市ノヴォシビルスク・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者アーノルド・カーツの指揮。ラフマニノフ『パガニーニの主題による狂詩曲』(ピアノ:花房晴美)、チャイコフスキーの交響曲第6番『悲愴』ほかロシアものをそろえた。列島の北方のオーケストラがロシア人指揮者に率いられての公演は、両地とも満席に近い盛況だった。

 この年のPMFには、レジデント・コンポーザーとして武満徹が参加。作曲家が札幌に長期滞在する中、15公演で彼の作品が演奏された。札響はバーンスタインのミュージカル『キャンディード』の、札幌市民会館と芸術の森野外ステージでの公演に参加した(演奏会形式)。

 9月はマーラーの交響曲第2番『復活』(指揮:デイヴィッド・シャローン)、10月はブルックナーの交響曲第7番(指揮:飯守泰次郎)と、大曲が続く。

 この月には中島公園で札幌コンサートホールの起工式が行われ、いよいよ札幌に音楽専用ホールの誕生が現実のものになった。

 10月、開基100年を記念して竣工した倶知安町総合体育館のこけら落としとして「ほくでんファミリーコンサート」が開かれた(指揮:円光寺雅彦)。

 11月には2度目の『トヨタクラシックス』東南アジアツアーで、タイ、シンガポール、マレーシア、ブルネイ、フィリピン、台湾で6公演。指揮秋山和慶、ヴァイオリン独奏加藤知子。プログラムはチャイコフスキーの交響曲第4番などをメインにしたものと、クライスラーやアンダーソンらの名曲を並べたものの2パターンを基本に、現地作曲家の作品を交えて組み立てられた。

 12月には『北の“交響史”―札幌交響楽団・30年の全演奏記録』が刊行された(札幌交響楽団編、和泉書房発行)。編集に当たったのは創立から6年間事務局に在籍した太田泉である。3年前の30周年の年に楽団史編纂の計画が持ち上がったが実現せず、ならばせめて演奏記録だけでもと、札響を離れて久しい太田が手書きの記録原簿などを頼りに編集作業を積み重ねた。

1995年

 2月には大野和士が定期初登場。ラフマニノフのピアノ協奏曲第1番(ピアノ:中村紘子)、ルトスワフスキ『管弦楽のための協奏曲』などを指揮した。開演前に、死者6400人もの被害を出した前月の阪神・淡路大震災の犠牲者への哀悼と鎮魂を込めて、バッハの管弦楽組曲第3番『アリア(G 線上のアリア)』が演奏された。

 3月には、この大震災復興救援のためのチャリティコンサートを開いた(指揮:秋山和慶、かでる2・7ホール)。シューベルトの交響曲第7番『未完成』、グリーグのピアノ協奏曲(ピアノ:遠藤郁子)、モーツァルトの交響曲第41番『ジュピター』。関係者の協力で会場費、楽器運送費、ピアノ調律料、パンフレット制作費なども無料奉仕となり、完売となった入場料収入全額を被災地に贈った。

 3月の本州公演は秋山の指揮により大阪、東京に続けて松戸と大宮でも行われ、連続4公演の「ホクレンクラシックスペシャル」開催となった。プログラムは3月定期と同じで、ブラームスの交響曲第3番とピアノ協奏曲第1番(ピアノ:練木繁夫)。

 4月定期は秋山によるロシアもので、スクリャービンのピアノ協奏曲(ピアノ:伊藤恵)、リムスキー=コルサコフ『シェラザード』。5月定期は桂冠指揮者岩城宏之による近代フランス音楽で、ドビュッシー『夜想曲』と、ラヴェル『ダフニスとクロエ』(全曲)。この年秋山は11回の定期演奏会のうち7回指揮台に立ち、秋山色を強く打ち出した。

 6月、指揮者に末廣誠が就任した。89年から音楽教室やグリーンコンサートなど、数多くの場を重ねていた。

 6月末、芸術の森に、大人数でのリハーサルができるほか発表機能も備えたアリーナ形式のアートホールがオープン。以後札響の練習場はこのホールとなり、PMFのリハーサルもこの年からここがベースとなった。

 PMFでは、佐渡裕の指揮でバーンスタインのミュージカル『オン・ザ・タウン』日本語版を初演(札幌市民会館、札幌芸術の森野外ステージ)。演奏会形式だが、歌手たちは舞台上にさらに造作したステージで多少の演技を行った。バックコーラスは、この演目のために編成された札幌オペラシンガーズ。

 10月、3人目のコンサートマスターとして、カナダ・ヴァンクーヴァー交響楽団コンサートマスターの長井明が、1年間の休職期間をこれに充てて就任した。長井は旭川生まれ。東京芸術大学を卒業ののち米国インディアナ大学音楽学部大学院を修了。カナダ・モントリオール交響楽団を経て76年からヴァンクーヴァー響コンサートマスターの任にあった。

 11月には、86年のスタート以来「音文協札響稚内定期公演」を支援してきた稚内信用金庫が地域芸術文化支援活動への貢献によりメセナ地域賞を受賞(企業メセナ協議会主催)。91年から始まったこの賞の、東北・北海道地域からの受賞は初めてだった。

1996年

 この年はブルックナーの没後100年に当たり、1月定期は、高関健による交響曲第5番。

 2月、札響にとってゆかりの深い作曲家武満徹ががんで没した。

 3月、初代常任指揮者の荒谷正雄が死去した。89年3月の「札響祭」での2日間にわたる指揮が札響との最後の演奏となった。若杉弘による3月定期はマーラーの交響曲第9番だったが、この“告別の交響曲”が荒谷に捧げられた。

この月の東京・大阪公演には、創立35周年を記念してペーター・シュヴァルツが登場。新進ピアニスト横山幸雄によるショパンのピアノ協奏曲第1番、ドヴォルジャークの交響曲第9番『新世界より』などが組まれ、愛知県の豊田での公演も行われた。出発前に札幌でも同じプログラムの特別演奏会が開かれ、5年ぶりのシュヴァルツの姿がファンを喜ばせた。

 5月には盟友岩城宏之の指揮で武満徹追悼特別演奏会(札幌市教育文化会館)。客席を埋め尽くした聴衆の前で、『乱』組曲、『夢の時』、『海へⅡ』、20年ぶりの演奏となった『ノヴェンバー・ステップス』、『弦楽のためのレクイエム』が演奏された。

 6月定期は岩城によるバレエ音楽で、ラヴェル『マ・メール・ロワ』とストラヴィンスキー『火の鳥』(全曲)。

 

「名曲シリーズ」スタート

 

 1996年6月、現在も続く「名曲シリーズ」がスタートした。定期演奏会とは違う色合いからクラシックの名曲を幅広い層に楽しんでもらう目的で、年4回の開催。第1回は秋山和慶の指揮で、ベートーヴェンの交響曲第6番『田園』などを演奏した。

 7月には、93年7月の北海道南西沖地震で最も大きな被害を出した奥尻島での復興支援コンサートに出演(指揮:末廣誠)。公演前日にはユニオンの申し出で、金管メンバーが奥尻中学校の吹奏楽部を指導した。

 8月、札響の活動をファンとして幅広く支援する目的で「札響くらぶ」が発足した。札幌コンサートホール建設のために市民運動の土壌を作った山科俊郎北海道大学教授(札響評議員)らが呼びかけ人。「市民として札響の演奏を楽しみ、活動を支援する」ことが目的である。設立総会で山科は、「強い札響になってもらうため、市民の応援団をつくりましょう」とあいさつしている。くらぶは、札響と市民を結ぶ役を自任した。

 

 札響くらぶの発会式では、楽団から経営状況についての説明があり、この席で2億円を超える赤字を抱えていることが報告されることになる。数年前までの好況はこの時期、見る影もなくついえていたのだった。

 80年代後半からの好況期、年間収支はほぼ均衡状態を保っていた。累積赤字も92年度までは8000万円台を上下していたが、翌93年度から一気にふくれてしまう。

 最大の要因は演奏料収入の減少で、経済が失速すると企業や自治体からの依頼公演が減り、恒例だった公演が打ち切られたり回数が減らされたりするようになる。130回を目途としてきた年間公演数は110回台にとどまり、90年から続いた「たくぎんニューイヤーコンサート」は96年で打ち切られ、ホクレンが協賛する本州公演も97年3月からは東京のみの開催となった。

 

 9月定期は秋山の指揮で、没後100年の翌97年までかけて5回にわたって行うブラームス・シリーズのスタートとなった。

 この月には、3人のコンサートマスターのうち93年から3年間務めていた尾花輝代允と1年間の長井明の2人が契約を終えて退団した。

 また、10年以上にわたって札響の演奏を紹介してきたFM北海道の「札響アワー・スペシャル」(当初は毎週土曜日。94年からは年6回、不定期で日曜夜)が、スポンサーの北海道拓殖銀行が打ち切りを決めたために終了となった。

 9月、北海道公立学校教職員互助会設立20周年記念メモリアルコンサートが根室市総合文化会館で開かれた。このあと、その支援による「ふれあいコンサート」は道内各地に展開されていく。

 
 

1997年

 経済が重く停滞するなかにあっても、1997年は札幌の音楽ファンにとって、夏に札幌コンサートホールの開館を迎える喜びとともに始まった。新ホールの愛称は、公募の結果「Kitara(キタラ)」と決まった。古代ギリシャの弦楽器「キターラ」に、「北」、そして「来てみたら?」という言葉を掛けたもの。

 クラシック演奏会の数も例年になく多く、ウィーン・フィルを筆頭とする海外オーケストラや大物演奏家の来道がいくつも予定されていた。

 1月定期のプログラムのエッセイを音楽学者で北海道教育大学前学長の谷本一之は、こう締める。

 「札幌には札響ありPMFあり、そしてさらに音楽専用ホールが加わる。音楽都市を宣言しても良いだけの枠組みはそろってきている。三者が共通のビジョンの下にうまく噛み合って回転していけば、世界に発信できるユニークな北国の音楽風土を創造するのも夢ではない」

 ホールの竣工に合わせて、札響事務局も札幌市教育文化会館からKitaraへ移転することになった。

 

1997年1月 札幌コンサートホールKitaraオープン前のリハーサル

 

 1月、首席チェロ奏者の土田英順が定年を迎え退団した。74年から22年間にわたってチェロセクションを率い、地域に根差したアンサンブル活動にも熱心に取り組んできた札響の顔のひとり。オーケストラを離れて以降も、音楽活動などを多彩に続けている。

 東京だけとなった3月の本州公演は、尾高忠明の指揮でラフマニノフのピアノ協奏曲第3番(ピアノ:清水和音)とショスタコーヴィチの交響曲第5番。東京に先立ち、札幌でも同プログラムの特別演奏会が行われた。

 4月定期では交響曲第4番ほかの演奏で秋山の指揮によるブラームス・シリーズが完結した。北海道新聞の評で村田千尋(北海道教育大学助教授)は「ポリシーがはっきり分かるプログラムはいいですね。ブラームスに集中して取り組んで、弦楽器のアンサンブルが随分良くなったように思います」(1997.4.14夕刊)と語りつつ、シリーズ全体には『ドイツ・レクイエム』なども入れてほしかったという希望も述べている(1996.5.2夕刊)。

 6月定期の前に、サウンドチェックを兼ねて、竣工間近の札幌コンサートホールでも練習を行った。札幌市民会館に戻ったとき指揮者の高関健は札響の音が大きくなっていてそれを抑えなければならなかった。「音の出し方が変わったのではないか」と言う。

 

Kitara開館

 

 7月4日(金)、いよいよ札幌コンサートホールKitaraのこけら落とし。フランスのケルン社製のパイプオルガンを擁し、聴衆がステージを囲むアリーナ型の音楽専用ホールだ。

 ブロックごとに区分されたワインヤード方式の客席は、これまで札幌市民会館や北海道厚生年金会館で長くオーケストラ音楽を聴いてきた市民に、新次元の音楽体験をもたらしていく。クロークや十分な数のトイレ、冬でも開演前に屋外で行列を作る必要がない大きなホワイエ、あるいは専門のレセプショニストによる誘導やクロークサービスなど、市民生活にこれからの音楽文化のあり方を提案する、世界有数の音響を誇るホールの誕生だった。

 式典は、三善晃作曲の『札幌コンサートホール開館記念ファンファーレ』で幕を開け、札幌交響楽団と市民合唱団が、ベートーヴェン「第9」の第4楽章を演奏した。

 同日夜には札響による「こけら落としコンサート」。秋山和慶の指揮、工藤重典のフルートでモーァルトのフルート協奏曲第1番、小林英之のオルガンでサン=サーンスの交響曲第3番『オルガン付き』ほかが、満席の聴衆に札幌の音楽史に新たなページが開いたことを実感させた。

 Kitaraの音響設計に当たった永田音響設計(東京)の豊田泰久は北海道新聞のインタビュー(1997.1.10)で、良いホールの条件は「そこに良いオーケストラがあること」と答えている。Kitaraの誕生は、いうまでもなく札響の針路にとっても重要な意味を持っていた。

 

 7月の定期演奏会は、新たな本拠地での初めての定期。チケットは早々に完売となった。

 ホールはオーケストラにとっての楽器にほかならない。それまでに20回ほどこの新ホールでリハーサルを重ねてきた札響楽員や関係者の間には、この真新しい楽器をいかに鳴らしていくかが札響の今後にかかっているというのが共通の認識となっていた。

 プログラムは、岩城宏之指揮によるストラヴィンスキーの3大バレエ(『火の鳥』『ペトルーシュカ』『春の祭典』)という、新ホール開館にふさわしい意欲あふれるものとなった。北海道新聞の音楽会評(1997.7.17夕刊)は「100人を超える大きな編成である『春の祭典』であっても楽器の組み合わせや音のぶつかり方の面白さが実によく分かり、日ごろなかなか聴こえてこない内声部の細かな動きも鮮明である」と書き、「木管・金管群の楽器の持ち替えや弱音器の着脱による音色の変化も明瞭に聴き取れ、ステージ横やオルガン前の席から身を乗り出すようにのぞき込んでいたお客さんがいたように、オーケストラを『見る』楽しみも大いに味わえた」と続く。

 8月、初代常任指揮者荒谷正雄の功績を讃え、札響は荒谷に名誉創立指揮者の称号を贈った。

 

 Kitaraでの2回目の定期となる9月定期は、尾高忠明によるオール・エルガー・プログラム。チェロ協奏曲(チェロ:菅野博文)と交響曲第1番。

 12月には井上道義によるオール・モーツァルト・プログラム。井上は5人のアンサンブルによる「グラスハーモニカのための『アダージョとロンド』」、管楽器13人による『グラン・パルティータ』から、交響曲第29番、『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』、交響曲第41番『ジュピター』という、趣向を凝らしたプログラムを用意した。

 この年11月、北海道拓殖銀行が経営破綻。都市銀行では初めてだった。

 

インタビュー

Kitaraの設計と札響

宮部光幸(建築家)

 

 札幌芸術の森のプロジェクトでは、緑豊かな丘陵地に札響の練習場を作ることが目的のひとつでした。それまでの北海道青少年会館(南区真駒内柏丘)には楽器の保管庫もなく、練習のたびに持ち込まなければなりませんでした。第1期のオープン(1986年)で完成したのはいま中練習室と呼ばれるところですが、これで札響がようやく本格的な練習場を持つことができました。しかし容積の問題もあり残響にやや不満が残った。いまのアートホールができるのは、95年ですね。

 90年にPMFでバーンスタインが来て、このころから良い音楽ホールを求める市民の声が高まっていきます。92年の秋には音楽専用ホールの建設が決まり、設計競技が行われました。私のチーム(北海道開発コンサルタント、現ドーコン)が設計を担うことになりました。

 設計に当たって私は世界のすぐれたホールのすみずみを見てまわりました。世界トップのホールを建てようと、現場の士気は高かった。視察や研究を進める中で、私はホールとは広い意味で演奏家の生活空間なんだ、と再認識しました。単に立派な空間が無機質に存在しているだけではダメなのです。欧米の名門オーケストラの本拠地となるホールでは、楽員ひとりひとりにロッカーがあって、彼らはつねにそこに自分の楽器や道具を収めておける。そしてホールの近くには音楽学校があって、演奏家たちはそこで教育も行う。そんな例が珍しくありません。私は札幌でも、札響を軸にいつかそんなことができないかと考えていました。音楽をただ鑑賞したり消費するだけではない、幅広い教育の営みを取り入れた、音楽による地域づくりとでもいえるでしょうか。

 Kitaraの意匠には札幌の歴史を語るものを取り込んでいます。61年という早い時期に、札幌は自前のオーケストラを持った。先人たちは、このまちに札響をどうしても作らなければならなかった。私はそうした強いモチベーションを、建築空間に表現したかったのです。

 例えば、大ホール入口のドーム状の天蓋は、18(大正7)年に中島公園で開かれた開道50年記念北海道博覧会の奏楽堂の引用です。その16年後には伊福部昭や早坂文雄が札幌で、世界の作曲界とつながる音楽会を開きました。Kitaraには、そうした時代の札幌を記すようなモチーフがイコン(記号)として配置されているのです。

 

■ミニコラム Kitara開館

 1997年7月4日、中島公園に音楽専用の札幌コンサートホールKitaraが開館した。大(2020席)、小(459席)2つのホールがあり、大ホールにはフランス・ストラスブールのケルン社製作のパイプオルガン(パイプ数4976本)が据え付けられている。響きの豊かさは開館当初から好評を得、各国から関係者の見学が相次いだ。

 札響は開館以来この大ホールを主たる活動の場としており、定期演奏会のときは前日から本番のステージで練習をして会場の響きを自分のものととしている。

 札響がここで開く演奏会の比率は全公演の48%にものぼっている。開館以来事務局もこの建物の一角に場を占めており、ホールとオーケストラの関係は密接だ。

 

■ミニコラム 4市町の合唱団が「土の歌」で交流

 合唱団「土の歌」(大木惇夫作詞、佐藤眞作曲)を介して交流を続けてきた道内4市町の合奏団が1997年9月、「札響音更定期演奏会 混声合唱のためのカンタータ『土の歌』で結ぶ音楽交流」で札響と共に、息の合った歌声を披露した。

 音更のヴォイス・ブーケ、美唄市民合唱団、美幌町混声合唱団、余市町混声合唱団が最初の「“土の歌”音楽交流会」を開いたのは89年8月のことだった。86年6月に音更町文化センターこけら落とし公演で札響の演奏によりこの曲を歌ったヴォイス・ブーケが「同じ歌をうたう者同士が心の触れ合いを」と呼び掛けて交流が始まり、毎年持ち回りで開催を続けて、札響と一緒のステージがこの日音更で実現した。

 指揮は前の音更公演と同じ小松一彦。4団体合同の合唱団約180人が「土の歌」を高らかに歌い上げ、感動共にした。

 

1998年

 2月、第2代常任指揮者ペーター・シュヴァルツが、がんのためにウィーンの自宅で死去した。72歳。

 網走管内で初の音楽専用ホールを持つ北見芸術文化ホール(きた・アート21)が開館して、こけら落としに出演。Kitaraではこの月、毎日新聞社主催によるクラシック特別コンサートシリーズの8回目で、8年ぶり2回目の取り組みとなるマーラーの交響曲第8番『千人の交響曲』が、総勢500人規模で演奏された(指揮:田中良和)。

 栗山町では、地元の実行委員会と北海道新聞社、札幌交響楽団主催による札響栗山町定期演奏会(札響ひなまつりコンサート)が10回目を迎え、空知南部の春の文化行事として定着していることを印象づけた。

 

 3月には、記念すべき第400回定期演奏会。創立37年目にたどり着いた金字塔である。秋山和慶は満を持してマーラーの大曲、交響曲第7番『夜の歌』を選ぶ。札響のレパートリー拡大を目指してきた秋山ならではの取り組みで、秋山時代の最後の定期となった。

 
 

(文中の敬称は略し、肩書は当時のもので記載しました。地名も当時のもので、変更や合併により現在とは異なっているところがあります。引用文については、文字遣いなど、本書のスタイルに改めたところがあります。)