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札幌交響楽団

札幌交響楽団

History 1961 - 2021

1979年8月4日 約3万人を集めた道庁赤れんが庁舎前のグリーンコンサート 指揮 岩城宏之
第3章 岩城宏之との挑戦 [1975 - 1988]

音楽世界の拡大

 さらなる成長段階に差しかかったオーケストラを率いたのは岩城宏之だった。その高い人気は札響への注目度上昇につながり、取り上げる音楽の範囲は、地域が拡大し、時代も広がっていった。同時代音楽への熱心な取り組みは、札響に作曲家武満徹との緊密な結び付きをもたらしていく。

1975年

 1975年7月、岩城宏之の正指揮者就任が発表された。岩城は当時NHK交響楽団正指揮者、オーストラリア・メルボルン交響楽団の常任指揮者などを務め、42歳の若さと国際的な仕事ぶりは、クラシック音楽の世界にとどまらない注目を集めていた。

 岩城は32年東京生まれ。東京芸術大学音楽学部打楽器科に学び、在学中にN響副指揮者となりデビュー。60年にはN響と世界一周演奏旅行を行い海外でも一躍注目される。国内はもとより海外の主要オーケストラに客演して、1年の半分以上は国外を飛び回る活動を繰り広げていた。札響とはそれまでに既に7回の協演歴がある。契約は10月から。

 盟友山本直純は北海道新聞への寄稿(1975.7.5夕刊)で、荒谷正雄を生みの親、ペーター・シュヴァルツを育ての親とすれば札響はその親元を離れたのだと位置づけ、「一人前のオーケストラとして第三の指揮者岩城を迎え、完成への道を進めるこのオーケストラを見るとき、実はこれからが、本当のオーケストラの苦労であり、試練であり、またそれを超えて大きく完成に近づいてほしい。その時、本当の評価がなされるのだと思う」と書いた。見出しに付けられた「完成目指す“第3期”へ」は、岩城就任に対する、関係者や市民に共通した受け止め方だった。

 岩城は、9月に就任のあいさつで板垣武四札幌市長を訪ね、「札響を日本のクリーヴランド管弦楽団にしたい」と抱負を語った。札響に自らの理想実現の可能性を見いだし、ジョージ・セルの手腕によって「地方」オーケストラから世界的な楽団に成長したこのオーケストラを目標にするという宣言だ。そのためには楽員をいっそう鍛え、楽員にソリストとして演奏する機会を作る、という意向も表明された。

 

 定期初登場は、10月。プログラムは、石井眞木の「管弦楽のための『序』」、ラヴェル『左手のためのピアノ協奏曲』(ピアノ:安川加寿子)、ストラヴィンスキーのバレエ音楽『ペトルーシュカ』(ピアノ:本荘玲子)。初練習の模様から3段抜きの写真入りで紹介した北海道新聞をはじめ、各メディアは岩城・札響の動向に注目。初練習の翌日には上関敏夫理事長以下17人の全理事、事務局、62人の楽員のほぼ全員がそろい、ビアハウスで懇親会が開かれた。

 こうした盛り上がりを受けて当日の札幌市民会館は、補助席も含めて満席。演奏は後日、NHKで全国に放送された。

 「管弦楽のための『序』」は、ドイツを中心に活動する石井が岩城に贈ったもので、前月のN響定期で世界初演。同時代の邦人による現代音楽を冒頭に据えたことは、岩城・札響のスタートを、今後の針路を含めて強く印象づけることになる。このあと同プログラムで、北見と帯広公演が行われた。

 

 正指揮者岩城の初登場に先立つ9月、旭川出身のヴァイオリン奏者藤川真弓を迎え、日本交響楽振興財団の支援による特別演奏会が、札幌、旭川、池田で開かれた。このあと財団は、虻田、三笠、網走、女満別、白老などでの定期演奏会開催の大きな支えとなっていく。

 11月には、名寄での外山雄三指揮によるベートーヴェンの「第9」が話題を集めた。地域の合唱団と関係者が半年以上かけて実現させたもので、当時の「最北の第9」だった。ソプラノの鮫島有美子はこの演奏会が「第9」独唱初体験。のちに「札幌に着いてから初めて暗譜で歌うと聞き、移動の汽車の中で懸命に覚えました」と思い出を語っている(北海道新聞1989.12.15)。

 定期演奏会の会場は12月から北海道厚生年金会館に移り、定期演奏会で岩城は、フランス音楽を取り上げた。荒谷、シュヴァルツ時代に軸としていたドイツ・オーストリア音楽から、新たな道に進み始めたことは明らかだった。

1976年

 2月定期は岩城が指揮し、これもフランス音楽を集めたプログラムだった。楽員にソロの機会を与える、とした岩城構想がはやくも実現され、ベルリオーズ『イタリアのハロルド』ではヴィオラ首席の西川修助が独奏者を務めた。

 3月には岩城・札響の公演が千歳中学校体育館で行われた。土曜日の午後、用意したパイプ椅子1000席が家族づれで埋まり、北海道新聞は「道内各地で“岩城札響”の演奏会開催を望む声が強く、札響事務局では札幌での演奏会を減らして、その分を道内各地で開くことにしたもので千歳がその皮切り」(1976.3.21)と岩城人気の高さを報じた。

 6月定期には井上道義が初登場。イツァーク・パールマンを迎えてチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏した。

 客席では音が散らばると一部に不評だった北海道厚生年金会館大ホールだが、このころ、竣工後3年ほどで壁や天井の造作も空間になじんでくる。ようやく2300人収容の大空間の実力が発揮されるようになってきた、との声が上がり始めた。

 またこの時期、札幌以外では初となる後援会、日高札響後援会が発足した。これは74年11月、静内文化センター開館記念の演奏会に札響が出演したことがきっかけで、翌年も静内公演が行われたが、前回に続き数十万円の赤字が出た。町としては定期公演化を望むものの、この赤字では二の足を踏まざるをえないという状況。そこで資金援助とクラシック音楽ファンの拡大をめざすためにファン組織ができた。これが、以後道内に作られていく同種の組織のはしりである。

 7月、72年の財団解散後に楽員の自主運営で活動を続けていた日本フィルが、渡辺暁雄の指揮で最初の北海道公演を行った(札幌、旭川、函館をはじめとする8市)。北海道音楽鑑賞協会(74年に労音から改称)主催の「ガンバレ日フィル・第1回北海道公演」だ。

 秋、首席フルート奏者の細川順三が文化庁芸術家在外派遣研修員に選ばれ、1年間スイスでの研鑽に出発した。

 

定期にオール武満プロ

 

 1976年12月定期は、札響の存在を正真正銘の全国区にした、岩城の指揮によるオール武満プログラム。そろえたのは、『弦楽のためのレクイエム』『ノヴェンバー・ステップス』『ウィンター』『ジティマルヤ=マリンバ協奏曲』『マージナリア』の5曲である。武満は4日間のリハーサルにも立ち会い、楽員たちとコミュニケーションを重ねた。

 定期演奏会を邦人の現代曲だけ、しかも1人の作品にしぼって行うなど、もとより前代未聞のこと。あまりにも無謀な試みとの声が関係者から強く上がったが、ふたを開ければ、いくつかの東京からの来札グループも含めて予想を大きく超える聴衆を集めた。演奏はFM東京をキー局に全国放送され、どのオーケストラもなし得なかった画期的なコンサートとして注目を集めて、「札響の武満」の歴史がここから始まっていく。

 谷口静司事務局長は、「当時まだ40代だったわれわれには、首都圏や日本のマーケットに対する深慮遠謀というよりも、ただ目の前の可能性に対する好奇心や挑戦心しかなかった」と言う。

 

 またこの年の札幌での「第9」は、指揮のズデニェク・コシュラー、ソプラノのエヴァ・ジェポルトヴァをはじめチェコスロヴァキア音楽祭で来日中の音楽家が登場した。民音と音鑑がそれぞれ開いてきた「第9」公演がなくなったこともあって、前売りだけで入場券が完売したほか、合唱への申し込みも230人もあったのには、事務局も驚くほどだった。

 

■ミニコラム 武満徹が寄せた信頼

 作曲家武満徹(1930-1996)は札響に厚い信頼を寄せ、札響もまたそれに応えた。

 1976年12月の第166回定期演奏会は全5曲を武満作品で構成する異例の取り組みだった。82年6月に札幌市民会館で開いた「武満徹世界初演曲 札響特別演奏会」では「A Way a Lone」「Towards the sea(海へ)(オーケストラ版)」「Dreamtime」3曲を初演した。

 黒澤明監督の映画「乱」につけた武満の音楽は、85年4月に札響が千歳市民文化センターで録音した。武満が「自分の音色を一番理解してくれるのは札響だ」と言い張っての起用で、その録音は国内外でさまざまな形で発売されている。

 死去から3か月後の96年5月、札響は札幌市教育文化会館で武満徹追悼特別演奏会を開き、代表作「ノヴェンバー・ステップス」など5曲を演奏して故人をしのんだ。

 以上の演奏会はいずれも岩城宏之によるものである。

 

1977年

 1月定期は、初のマチネー・コンサート(昼間公演)。ホルン首席奏者の窪田克巳がハイドンのホルン協奏曲でソリストを務めた。

 4月、ウィーン・フィルの定期演奏会に岩城宏之が登場して、日本の音楽ファンの関心を集めた。ウィーン・フィルの指揮台には、日本人ではそれまで大町陽一郎、小澤征爾、小泉和裕が立っていたが、定期演奏会には岩城が初めてだった。急病のベルナルト・ハイティンクの代役ではあったが、実力を評価されて翌年の定期には正式に招聘される。

 同月、北海道新聞社と札響共催による無料公演、「小・中学生のための札響コンサート」が北海道厚生年金会館で開かれた。これは、小中学生にもっと良い音楽をと訴えた、北海道新聞に載った教師の投書がきっかけ。学習ではなくもっと自由に生のオーケストラを楽しんでもらおうと、ウィーン・フィル定期の舞台に立って帰国したばかりの岩城が指揮台に立ち、2300の客席を埋めた子どもたちを楽しませた。

 77年から、定期演奏会チケットの構成が変わった。それまでの1回ごとの一般入場券と、会員向けの春、秋、冬のシーズン券に加えて1年間通しのチケットが発売され、これにより年間を通して好みの席で札響が楽しめることになった。当時国内に15あったプロオーケストラで初の試みだ。S席は2万900円で、全回を1回券で聴いた場合の3万3000円より37%、シーズン券で聴いた場合の2万2000円より5%安い設定となっていた。このころの定期会員は約1000人である。

 

 7月の定期は、岩城の指揮。バルトーク『女声合唱と小オーケストラのための6つのハンガリー民謡』と、ドビュッシーの『夜想曲』。共に合唱は、札幌大谷短期大学輪声会の46人。バルトークも原語での合唱だった。

 8月には、創立時からのメンバーでコンサートマスターの佐々木一樹が東京交響楽団のコンサートマスターに転じた。正団員になって16年。次のステップを求めての決断で、佐々木はその後イ・ソリスティ・ヴェネティの首席奏者・ソリストに就くためにイタリアに渡ることになる。

 その後任には、(旧)日フィルと新日フィルでコンサートマスターを務めたルイ・グレラー(武蔵野音大客員教授)が就任。トスカニーニが率いたNBC交響楽団での活動など華麗な経歴を持つ大物が札響に何をもたらしてくれるかに注目が集まった。

 10月には放送文化基金の支援を受けたコンサートが遠軽、網走、名寄、稚内で開かれた。

 この年8月に有珠山が噴火。札響は10月に虻田公演を予定していたが、会場の洞爺湖スポーツセンターは火山弾でまだ天井に穴が開いていた。中止を申し出た事務局に岡村正吉町長は、こんなときにこそ音楽が必要なのです、と延期を要望。翌78年2月に開催された演奏会でベートーヴェンの交響曲第6番『田園』などを披露して町民を喜ばせた。

 指揮は、前年の民音コンクール〈指揮〉で第2位となったフランスの若手、ジェローム・カルタンバック。

 

いまや札響は日本の“文化財”だ 岩城宏之・尾高忠明対談

  (『札幌交響楽団1961―1981』から抜粋)

岩城 僕が、札響が日本のほかのオーケストラと本当に一番違うなと思うことは、毎年の忘年会。札響についての本質的なことじゃないけどね。どこのオーケストラでもそうだけど、忘年会とかなにかそういうパーティがあると理事とかがわりと来るでしょう。たとえば、N響なんかでも会長とか理事長がちょっと来て5分間ぐらいでうまいことを言ってすっと帰っていく。ところが、札響のそういう会というのは、全理事のおじいさんたちが最後まで一緒に遊んでいく。
尾高 やっぱり、バックに北海道という自然があるという感じがすごくしますね。いい意味でね。
岩城 それから、おもしろいと思ったことは、来た最初のころ、どこかに旅行があって、それを「来週の地方旅行は…」なんて言っているの。だれが言ったか忘れたけど。それで、僕はふっと思ったんだけど、名古屋とかいろんなところにオーケストラがあるけど、彼らは当人たちが地方オーケストラだと思っているんで、地方旅行なんて言葉使わないね。
尾高 地方旅行という言葉を使うのは東京だけですね、普通は。
岩城 だから、さすがにここは北海道国の首都のオーケストラなんだなと思って、それ以来、非常に僕は北海道独立論と廃県置藩なんかを唱えだしたのも、そういうのが頭に残っていたんですね。
尾高 じゃ、今度は東京に地方旅行なさったらいいでしょう。ぜひ。
岩城 要するに、北海道という国の、人口約500万の国のオーケストラを、北海道全体が、その国全体で非常に大事にしている、必ずしも全体がそういうところまでまだいってないにしても、やっぱり東京あたりからみるとそう見えるよね。そういう点で、日本の理想的なオーケストラが育ち得る背景をもっていると、僕は思っている。
尾高 たとえばNHK交響楽団とか、東京フィルハーモニーというのは、東京のオーケストラでありながら東京都民が、おれたちの街のオーケストラだとは夢にも思っていないんじゃないですか。
事務局 たとえば九州なんか、九州という地域はあるけれども、九州という実態はないわけでしょう。鹿児島なり長崎の人間が、福岡のオーケストラを郷土のオーケストラと思うはずは、歴史的にいってもないわけです。そういう点で、北海道というのは恵まれてはいますが。
岩城 だから僕としては、日本のすべてのいままでのオーケストラがここまで来た、その先へ行くにはどうしたらいいか。これだけの背景を持ったところでのみ、本当のオーケストラが育つのではないかと思い出したわけですよね。そこで、僕が就任の時に言ったキャッチフレーズが“日本のクリーヴランド(管弦楽団)にしよう”と、その理想はもちろんホラみたいなもんなんだけど、それから遠ざかりつつは絶対にない。

 

武満徹と札響

竹津宜男(創立団員・元ホルン奏者・元事務局長)
  (札幌コンサートホール会員誌『Kitara Club』2003年夏号のインタビューから再構成)

 札響が武満作品を演奏した最初は1968年の定期演奏会で、山岡重信さんが指揮した『弦楽のためのレクイエム』です。そして武満徹の最良の理解者である岩城さんの就任によって、札響は武満作品の最良の表現者になっていったと思います。岩城さんがN響で武満の曲を指揮するとき、まず団員に札響が演奏したテープを聴かせてからリハーサルに入ることもあったと聞いています。われわれに岩城さんに対する信頼と武満さんに対する畏敬があり、作品に必死に向かう気持ちがほかの楽団とは違っていたのではないでしょうか。札響は武満さんにとって、特別なオーケストラだったのです。
 黒澤明監督の映画「乱」の録音は、85年4月4日から3日間、千歳市民文化センターで行われました。現場にはふたりの芸術家が静かに火花を散らす、なんともいえない緊張感がただよっていました。
 録音開始の朝、そもそも札響と組むことに不本意だった黒澤監督は、団員に見向きもせずオーケストラの脇を素通りしました。助監督があわてて袖を引くとしぶしぶ、「8年かけてこの映画を作りました。よろしく」とだけ言って、ミキシングルームへ。
 録音が始まると、ここはコントラバスいらない、などと平気で言うのです。武満さんは、映画においては監督が最高権力者だと認めていましたから、強く反論することはなく、その場で修正を重ねます。まず4分50秒くらいの曲を、なんと40回くらい録りました。そのチェックを繰り返すうちに、しかし監督の態度が変わってきます。40回やっても、どれもテンポが全く狂っていない。しかもそれぞれに魅力あるテイクだった。
 OKが出て昼休み、という時に、黒澤さんが「ちょっと待て」と声を上げます。緊張が走るステージに向かってゆっくり歩いて指揮台に登ると、武満さん岩城さん、そして楽員全員に向かって、「千歳まで来たかいがありました。ありがとう」とおっしゃった。我々もいや、ホッとしました。うれしかったですね。

 

1977年12月23日 第177回定期演奏会(北海道厚生年金会館) 岩城宏之(指揮)

 

1978年

 1月定期は、75年5月の入団以降初めて杉木峯夫がソリストで登場。フンメルのトランペット協奏曲で美しい音色を披露し、ファンの期待に応えた。

 

 同じ3月、楽員補充に端を発した事務局と組合の話し合いが難航し、組合が北海道地労委に不当労働行為の救済申し立てを行う事態となった。和解まで3カ月を要し、事態収拾のために6月、北海道新聞社から専務理事として阿部隆次が事務局に入った。以後、楽団の運営は、北海道新聞社からの代々の専任者が担っていくことになる。

 演奏面では2月から3月にかけて、民音主催により8年ぶりの東京を含む本州4都市公演。オール武満定期に代表される札響の果敢な取り組みはFM放送などで首都圏にも知られ、札響をぜひ生で聴いてみたいという声も上がっていた。主催者は企画に、「スズランの香りをのせて」というキャッチフレーズを添える。どの会場でも、岩城効果で存在が知られるようになっていた札響への期待は高く、ハイドンのトランペット協奏曲で師のモーリス・アンドレの薫陶を実証する演奏を聴かせた杉木峯夫の演奏もまた、評価を高めた。

 この時期事務局では、折々の広報情報を束ねた初のダイレクトメール「札響ニュース」(B4判)を2000部発行。退会した会員の再度の掘り起こしなどに取り組んだ。

 春休みには、練習場に使っている北海道青少年会館で「北海道青少年会館(真駒内)ファミリーコンサート」を開催。練習場のある地域の人々への感謝を込めた演奏会は、以後恒例となった。

 3月は帯広公演も予定されていたが大雪に見舞われ、特急列車の到着は6時間遅れ。帯広のまちも雪の下で、交通はまひ状態となっており、公演は中止された。雪国のオーケストラではあるが、雪が原因となっての公演中止はこのときだけである。翌日の「小・中学生のための札響コンサート」は予定通り行われた。

 

 岩城のリードで勢いが増している一方で、77年度決算は単年度赤字が1000万円を超えてしまい、岩城が当初から望んでいた「早く4管体制に」の夢には一向に近づかない。当時の公的助成は札幌市4500万円、北海道4000万円、国2600万円ほどで、維持員の寄附も1600万円程度。公演数もチケット料金もアップは望めず公的助成も増える見込みがないとなれば、頼りは民間から寄附を仰ぐしかない。所得税法の中の試験研究法人(のちの「特定公益増進法人」)の認証を得て楽団への寄附が課税対象外となったことを武器に積極的な働きかけが進められ、11月には北海道新聞社から1000万円の寄附が得られた。

 

グリーンコンサート始まる

 

 5月には4年ぶりに小澤征爾が指揮台に立ち、札幌、函館、釧路、旭川でチャイコフスキーの交響曲第5番などを演奏した。

 さらにこの月、修学旅行生を対象にしたユニークな演奏会が札幌で企画された。遠距離にある地の学校が単独で音楽教室を行うことは予算的に無理があるが、向こうが来てくれるなら、と企てられた「修学旅行生のための音楽教室」だ。

 初回の5月19日には留萌管内から修学旅行に来ていた遠別中学校の130人が、北海道青少年会館で1時間の演奏を楽しんだ。「札響 ボクらが“貸し切り”」という見出しがつけられた翌日の北海道新聞には「団員たちは『団員1人当たり聴衆が2人。こんなに聴衆が少ないのは前代未聞』といいながらも、遠来の客に大張り切りだった。ちなみにこの日の公演料は6万5000円(生徒1人500円)。これまた前例がない“出血サービス”だったという」という内情も紹介されている。この企画はこの後も継続されていく。

 6月にはアイザック・スターンが特別演奏会に登場。メンデルスゾーンとベートーヴェンの、ふたつのヴァイオリン協奏曲が聴衆を魅了した(指揮:秋山和慶)。7月定期には、ベルリン・フィルのローター・コッホが登場。モーツァルトとテーリヒェンのオーボエ協奏曲を披露した(指揮:岩城宏之)。

 

 9月2日土曜日、道庁赤れんが庁舎前で、歴史的な無料野外コンサートが実現した。開道110年を機に開かれ「札響グリーンコンサート」と名づけられたこの催しは、庁舎前に反響板つきのステージを設け、聴衆には芝生に座りながらクラシック音楽を気軽に楽しんでもらおうというもの。岩城宏之がよく知られた曲や映画音楽などを指揮し、カバレフスキー『道化師』では「20年来演奏していない」という木琴独奏も披露した。

 晩夏に都心の緑地でゆったりとクラシック音楽をという試みだったが、なにぶん初めてのことで、聴衆がどれくらい集まるか予想が立たない。うまくいって3000人くらいかと踏んでいたが、ふたを開けるとなんと、主催者調べでは2万人の、広場をいっぱいに埋める市民が押し寄せた。事業課長だった竹津宜男は、あまりの数の聴衆に混乱を危惧。とりわけ終演後にゴミの山ができるのではないかと心配した。「開演前に私はステージから、これはグリーンコンサートという名前であるけれど、クリーンコンサートにもしたい。どうぞゴミは持ち帰ってくださいとお願いしました」

 はたして終演後市民が立ち去ると、もとのままの、ほとんどゴミの散っていない芝生が顔を見せた。かねてプロ野球と同じように、オーケストラで1万人単位のイベントができないかと考えていた岩城にとっても、してやったりの快挙。折しもその時期北海道は雨不足で、この催しを後押ししたホクレンをはじめ、農業関係者は気をもんでいた。岩城が、今日は困るけれど明日からどうぞ雨が降りますように、とスピーチをすると翌日、本当に恵みの雨が降ったのだった。

 グリーンコンサートは新聞や放送各局の全国ニュースでも取り上げられた。またこの日は北海道開拓記念館(厚別区)で開道110年記念式典があり、全道の市町村長らは今度はわが町でとの思いを抱いてそれぞれの地に戻り、翌年から全道5カ所での開催へとつながっていく。

 この9月で岩城は正指揮者としての契約期間が満了するが、10月からはさらに踏み込み、音楽監督・正指揮者として、それまでにも増して札響を強く牽引していくことになる。

 

 この年10月にも放送文化基金の支援によるコンサートが、今度は道南の森、七飯、長万部、今金で開かれた。

 11月の第74回北電ファミリーコンサートには、この年1月のパリ国際フルートコンクールで優勝した工藤重典(22)が、恩師佐々木伸浩の指揮でモーツァルトのフルート協奏曲第2番とハチャトゥリアンのフルート協奏曲(ヴァイオリン協奏曲をランパルがフルート用に編曲)の第3楽章を演奏した。工藤は小学生のとき、HBCジュニアオーケストラの団員募集にリコーダーを持って参加し、佐々木を紹介されてフルートの道に進んだのだった。

 

■ミニコラム 夏の風物詩「グリーンコンサート」

 さわやかな空気の中で札響の野外演奏を楽しむ「グリーンコンサート」が始まったのは1978年で、開道110年記念式典の後に道庁赤レンガ庁舎前で開かれ、2万人が集まって大好評を得た。翌年からは毎年5カ所で開かれ、そろいのTシャツ姿のメンバーによる演奏を広い年代のファンがリラックスして楽しむ光景は北海道の夏の風物詩となった。会場では札響の楽器募金に浄財を寄せる市民の姿も見られた。

 2001年からは開催地が1カ所となり、「開始30年」の2008年に札幌(知事公館構内)で開いたほかは岩見沢で開催されている。

 

1979年

 2月1日、さっぽろ雪まつりの初日に札幌市民会館で「さっぽろ市民コンサート」が始まった。札幌市と北海道銀行の支援を受けた親しみやすい無料コンサートで、札響が市内のあちこちに出向いて演奏会を開いていくもの。それぞれの地域の人々が実行委員会を作って取り組む手作り感も魅力で、年数回のペースで、こののちも長く人気を集めることになる。

 3月で、約5年間にわたって首席ヴィオラ奏者を務めていた西川修助が退団。4月からはN響首席奏者だった奥邦夫が首席奏者に就任した。

 4月の定期は岩城が指揮。ハイドンの『2つのホルンのための協奏曲』では首席の窪田克巳と入団3年目の市川雅敏がソリストを務め、楽員を積極的にソリストへという方針は、団の内外に新たな刺激を与えていく。

 5月定期には、ピアニストとしてキャリアをスタートさせたのち指揮活動も始めていたクリストフ・エッシェンバッハが登場して、モーツァルトのピアノ協奏曲の第21番と第27番を弾き振りした。エッシェンバッハは90年代にはPMFの芸術監督として市民におなじみとなる。

 7月定期には共にN響の徳永兼一郎(チェロ)、徳永二男(ヴァイオリン)兄弟によってブラームスの『二重協奏曲』が演奏された(指揮:岩城宏之)。

 

 前年大きな話題となったグリーンコンサートは、「グリーンコンサートを北海道の夏の名物に」のかけ声のもとパワーアップ。札響と北海道、北海道教育委員会の三者で実行委員会が作られ、全道5カ所(美深、函館、網走、帯広、札幌)で開催された。

 美深の会場は当時赤字ローカル線として盛んにニュースに取り上げられた美幸線仁宇布(にうぷ)駅(上川管内美深町)近くの「松山湿原まつりコンサート」会場で、過疎にあえぐまちに6000人以上の聴衆が集まった(指揮:福村芳一)。町では草刈りをした草原に仮設ステージを組み立てた。

 岩城は網走と札幌(道庁赤れんが庁舎前庭)に登場。ベートーヴェンの交響曲第6番『田園』などを指揮した。札幌では協賛のホクレンが牛乳パック1万個を先着順で配布したが、この日集まったのは予想を大きく超えて3万人にのぼり、メディア各社も札響の取り組みを大きく取り上げた。この年のグリーンコンサートの聴衆は合計で10万人を超えた。

 

1979年5月26日 グリーンコンサート(函館・五稜郭公園) 福村芳一(指揮)

 

1979年7月29日 グリーンコンサート(札響第4回網走定期演奏会・桂ヶ丘公園)岩城宏之(指揮)

 

1979年7月30日 グリーンコンサート(帯広・中央公園) 岩城宏之(指揮)

 

 9月定期には小林研一郎が初登場。シューマンのピアノ協奏曲(ピアノ:高橋裕希子=芦別出身)、チャイコフスキーの交響曲第5番ほかを演奏した。10月には札幌出身の植田克己がブラームスのピアノ協奏曲第1番で初協演を果たした(指揮:岩城宏之)。

 また12月定期には、サン=サーンスのヴァイオリン協奏曲第3番のソリストに数住岸子(すずみきしこ)が登場。その春の北電ファミリーコンサートで初協演していた数住とはその後80年代半ばにかけて、数多くの協演を重ねることになる。

 

■ミニコラム 「雨」の浦河

 これまで12回の浦河公演のうち、雨にたたられたものが4回もある。

 1979年は」10月20日にスポーツセンターで開催予定であったが、台風に見舞われて12月に延期された。曲目と指揮者が替わったためプログラムの刷り直しに10万円かかることとなり、紙質を落とすなど「主催の浦河文化協会も苦しいヤリクリ」と北海道新聞記事にある。

 グリーンコンサートでは3回ある。1982年7月に農水省日高種畜牧場で予定されていた公演はリハーサル中に雨に見舞われて中止され、翌年3月16日にファミリースポーツセンターで“リターンマッチ”の「カムバック グリーンコンサート」が開かれた。

 1989年7月はピスカリ館前庭にステージを組んで準備していたが雨で第二中学校体育館へ、1998年7月も優駿ビレッジAERU特設会場から浦河町総合文化会館へと移された。

 結局野外公演は一度も実現していない。北海道新聞記事には「野外だけでなく室内公演の時も雨が多くて」という町職員の嘆きともぼやきともつかない声が紹介されている。

 

1980年

 1月で、定期演奏会は200回となった。札幌の人口は140万人を超え、6大都市に数えられることとなる。プログラムは岩城の指揮で、まず石井眞木の「オーケストラのための『曙光』」の世界初演。岩城はこの曲を3月のベルリン・フィル定期でも演奏することになっていた。後半のマーラーの交響曲第1番は4管編成の曲であるため、東京から20人近いエキストラを呼ぶこととなった。このあとも札響は大曲への挑戦を重ねてレパートリーを広げていき、舞台の上に100人ほどの奏者が並ぶ光景が特別のことではなくなっていく。

 2月、78年4月から8回シリーズのSTV北電コンサートホール「モーツァルト・ピアノ協奏曲連続演奏会」が完結した。当時札幌在住だった小林道夫の弾き振りによるもので、全曲連続演奏は日本人ピアニストとしては初めてのことだった。

 3月には江別市民会館で、「母と子のためのコンサート」(15周年の江別市文化協会などとの共催)。子どもといっしょにクラシック音楽を楽しみたいという母親たちの要望に応えた初の試みだった。

 

 4月定期は、岩城によるハイドンのオラトリオ『四季』(合唱:札幌放送合唱団)で、4部39曲完全版は北海道初演である。

 6月には「伊福部昭の夕べ」(北海道厚生年金会館)。『交響譚詩』などの3曲を、伊福部に師事した芥川也寸志の指揮で演奏した。

 7月から8月は、グリーンコンサートをはじめとする道内公演の季節。全道を移動しながら、2カ月間で32回の公演をこなした。奥尻、礼文、利尻の島々にも足を運び、新聞には「創立以来初の離島公演」の文字が躍った。

 東利尻町では開基100年記念のグリーンコンサートだった。会場には早朝から続々と人が詰めかけ、3000人が演奏を楽しんだ。この人数は、隣の利尻町を含め、島に住むうちの4人に1人が足を運んだ勘定になる。

 このときのツアーには、新たな企画である「でんでんマイ・タウンコンサート」も組み込まれていた。これは電電公社が北海道の電話開通80周年を記念して開いたもので、開催地は、まだ札響が行っていないまちを中心に選ばれた。この年は栗山、江差、奥尻、枝幸、羽幌、岩内、厚岸、留辺蘂、美幌、足寄の10町と札幌市。4年間で32公演を重ねた。

 札幌でのグリーンコンサート(指揮:岩城宏之、道庁赤れんが庁舎前)は、にわか雨の洗礼も受けたが、集まった4万人の聴衆はほとんど帰る人もなく、関係者を感動させた。グリーンコンサートはこの年、5会場で6万4000人を動員した。

 

 8月には、10月に迫った札幌市教育文化会館(中央区北1条西13丁目)大ホールのオープンを前にしての音響測定があった。実際に音楽会が開かれている状態での測定とするため、招待された定期会員1000人を前に札響が演奏した。グリーンコンサートの公開リハーサルという位置付けだった。

 9月定期は秋山和慶の指揮で、高校3年生の千住真理子がブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番を演奏した。

 10月定期では、11月のウィーン・フィル札幌公演を前にして、第一コンサートマスターのゲアハルト・ヘッツェル、首席ヴィオラ奏者のルドルフ・シュトレンクがモーツァルトの『協奏交響曲』を披露した(指揮:小泉和裕)。

 11月には道立三岸好太郎美術館(中央区北1条西5丁目、現道立文書館別館。現在の三岸美術館=中央区北2条西15丁目=は83年3月開館)の企画展「三岸好太郎のオーケストラ展」の会場で、札響メンバー6人による室内楽演奏会が行われた。三岸の代表作「オーケストラ」を背にしながらの演奏だった。

 同月、名古屋で開催中の「北海道ビッグフェスティバル」の一環で、初の名古屋公演(名古屋市公会堂)。山本直純の指揮で、廣瀬量平の「祝典序曲『ウインターワンダーランド』」と伊福部昭『交響譚詩』という北海道出身作曲家2人の作品を含めたプログラムを披露した。

 この月にはニュースがもうひとつ。北海道の芸術、科学、教育などの文化の向上発展に貢献した功績が認められ、北海道文化賞(北海道教育委員会主管)を受賞した。

 12月には清水町文化センターオープン記念の「第9」演奏会があった(指揮:大町陽一郎)。人口1万3000人の町の熱心な取り組みは、テレビ2局が特集番組を放送したこともあって全国に賞賛された。番組はドイツとアメリカでも放映された。

 

 夏のツアーのあと、岩城の登場は12月定期となり、ファリャのバレエ組曲『三角帽子』第2部をメインに、田中賢(たなかまさる)(現札幌大谷大学教授)の「マンドリンとオーケストラのための『孤』」(世界初演)、尾高賞を受賞したばかりの武満徹のヴァイオリン協奏曲『遠い呼び声の彼方へ!』などが組まれた。独奏はそれぞれ、川口雅行、アイダ・カヴァフィアン。

 

■ミニコラム 「第9」の清水 全国に名前が響く

 清水町が「第9のまち」として全国に知られるようになったのは、1980年12月、町文化センターの開館を記念して開いた演奏会がきっかけだった。

 小学校4年生から72歳まで204人の合唱団を指導したのは、59年から地元のせせらぎ合唱団を指揮してきた高橋亮仁。人口1万3000人のまちでの「第9」は前代未聞と言われ、テレビ2局の特集番組では牛舎で仕事をしながら歌の練習をする人の姿などが映し出された。82年2月、札幌市民会館でのホクレンホワイトコンサート「第9」演奏会には清水町民合唱団のほかの180人が出演し、その音はさっぽろ雪まつりの大通2丁目会場にも流された。

 第9公演は5年おきに回を重ね、2005年は北海道交響楽団の演奏になったが、10年には再び札響に戻った。この間、1999年秋には高橋が交通事故に合って2ヵ月間生死の間をさまよったが、ベッドで第9を聴いて奇跡的に回復。2000年の公演が実現した。

 1995年版のライブCDは「酪農家用」と銘打たれている。「牛に聞かせて乳量アップを」という狙いだ。

 

1981年

 3月、「第16回さっぽろ市民コンサート」が厚別の「サンピアザ光の広場」で開かれた。大型商業施設内での演奏は初めてだったが、2000人を集め、大盛況だった。

 この月、創立期から事務方の第一線にいた谷口静司が新設ポストの主幹となり、事務局長には竹津宜男が就任した。竹津は創立以来のホルン奏者。74年春から事務局に入り、事業課長、事務局次長を歴任していた。谷口は82年9月開局のFM北海道に出向し、クラシック番組担当となる。

 

創立20周年

 

 4月、ルイ・グレラーの退任を受けて新たにコンサートマスター2人が就任した。水谷正志と市川映子である。水谷はグレラーの補佐役を務めていたが、市川は入団2年目の24歳で、岩城の大胆な抜擢がニュースとなった。

 4月、西日本最大のホールとして開館した福岡サンパレスのこけら落としで、札響の65人と九響の51人がひとつのオーケストラとなってストラヴィンスキー『春の祭典』を合同演奏(指揮:岩城宏之)した。南北のオーケストラによる興味深い試みとして注目を集め、リハーサルのときから地元メディアの密着取材を受け、九響にとっても地域に根差すオーケストラの意欲的な取り組みを効果的にアピールすることができた催しとなった。

 8月、東京フィルハーモニー交響楽団常任指揮者の尾高忠明(33歳)が札響正指揮者に就任。音楽監督岩城宏之とのコンビで札響を率いることとなった。尾高は1947年鎌倉生まれ。桐朋学園大学で斎藤秀雄氏に師事し、第2回民音コンクール〈指揮〉で第2位に入賞。71年にN響を指揮してデビューした。翌72年にはオーストリア政府から奨学金を得てウィーン国立アカデミーに留学。ハンス・スワロフスキーに指揮を、シュパンナーゲルにオペラを師事している。

 この体制には、多忙な岩城が、音楽監督とはいえ年間12回程度しか札響を指揮できないことから、尾高にそのサポートを託す狙いがあった。創立20周年の年にさらなる体制強化をはかるものである。その発表のときに岩城は「音づくりの面では、共通したものがあり、チームを組むなら尾高君しかいないと思っていた。2人合わせて札響の指揮をとれば、さらに安定した音が出せるようになる」とコメントしている(北海道新聞1981.4.25)。尾高のデビューは、8月のグリーンコンサートとなった。

 

1981年8月尾高忠明正指揮者就任発表(右:尾高忠明、中央:上関敏夫(札響理事長)、左:岩城宏之)

 

 9月は札響の20周年である。会員からは、結婚20周年を機に、あるいは第1回からの思い出に、といった寄附があった。

 このときに当たって谷口主幹は北海道新聞への寄稿で、シュヴァルツの時代に、ある評論家と、日本のオーケストラは本来その土地の音がするはずであるべきものが、せいぜい常任指揮者の音がする段階だ、と言いかわした」ことを紹介しながら、「が、ごく最近、札響はこの土地らしい音がするようになったと感ずる演奏会が間々あり、共感する声を耳にもする」と書く。また「地方色とはいっても、地方イコール泥臭さは採らない。札響は札幌のオーケストラである。技術洗練度のきわめて高い演奏水準に挑み、それを維持していくことを要求されている」(1981.9.5夕刊)と続けた。

 9月定期で岩城は、メイン曲のベルリオーズ『幻想交響曲』の前に、20周年を記念して廣瀬量平に委嘱した新作『ノーシング-北へ-』ほかを演奏した。廣瀬の曲に対して黒川武(北星女子短大教授)は、北海道新聞にこう寄せた。

 「北を歌う民衆の歌の系譜は明治このかたのつながりである。『北へ』の憧れは、現実的な快楽追求より、厳しく求道的な精神に向かうように、この作品の美しく叙情的な歌、豊かな音響像は、時代と人々の深い内的なものにかかわるメッセージで支えられている」(1981.10.3夕刊)

 9月からはまた、定期演奏会で、岩城、尾高はもとより、客演指揮者もすべて交響曲か協奏曲の作品を取り上げていくハイドン・シリーズを始め、基礎固めを図った。シリーズは82年11月まで、14回にわたって続けられた。

 

 10月は、正指揮者尾高忠明の定期初登場。プログラムは、ハイドンの交響曲第88番、三善晃『オーケストラのためのノエシス』、ドヴォルジャークの交響曲第8番。三善作品は作曲家が尾高のために作った曲であった。

 また同月、近畿の2府3県7会場で文化庁移動芸術祭「札響演奏会」。これまでの移動芸術祭がオペラやバレエの演奏だったのに対し、今度はオーケストラ単独での参加だった。指揮は、岩城宏之。以後こうした参加が定着する。

 11月、20年間にわたって札幌市の文化芸術に寄与したことが認められ、第10回札幌市民芸術賞を受賞した。

 12月には札幌市教育文化会館大ホールで、「札幌交響楽団と小さな音楽家によるジュニアオリジナルコンサート」が行われ、15歳以下のジュニアが自作を岩城指揮の札響と協演した。ヤマハ音楽振興会の主催で、アメリカ、中南米、ヨーロッパでも行われた事業の一環。以後、タイトルに多少の変化を見せながら87年まで続いていく。

 

インタビュー

岩城さんがくれたパイプ

一戸 哲(元首席ファゴット奏者)

岩城さんがヨーロッパでの仕事から帰ってすぐ札幌に来たことがありました。リハーサルが終わると「ちょっとおいで」と言うのです。まずいゾ、なにか怒られるのかな、と思っておそるおそる楽屋に顔を出すと、「ほら、デンマークで面白いパイプを見つけたんだ。あげるよ」と。スヴェントボルク製の、ユニークな形をしたパイプでした。ひと目で好きになりました。

僕は札響に入団(1970年)した20代のはじめから、パイプを吹かしていました。

岩城さんが札響を振るようになったころ、リハーサルの休憩時間にパイプを吹かしていると岩城さんが、「お、パイプか?」と話しかけてくださいました。岩城さんも、タバコのほかにパイプが大好きだったのです。

もうひとつ大切な思い出があります。あれは97年の7月定期。Kitaraができて最初の定期ですね。岩城さんの指揮によるストラヴィンスキーの3大バレエ全曲という、大変意欲的なプログラムでした。

ファゴットにとってはどれも容易な曲ではありません(ファゴットに限らないでしょうけれど)。自分にとっての難易度は『火の鳥』『ペトルーシュカ』『春の祭典』の順ですが、一般的には、最高音域のソロがたくさんある『春の祭典』が最もチャレンジングな曲だと言えるでしょう。岩城さんは、「ハルサイ」がうまくいったらこれをあげる、といかにも僕が好きそうなパイプを見せてくれました。そして、事務局に預けておくからね、と。鼻先にニンジンをぶら下げられたようなものです。

さて本番。なんとかソロも無事演奏して事務局に寄ると、「使っていいよ」と岩城さんがおっしゃっていました、とパイプを渡されました。やれやれ、と胸をなでおろしました。

パイプは20本以上持っていますが、岩城さんからいただいたものは、僕にとって特別なパイプです。

 

1982年

 2月、第115回北電ファミリーコンサート(指揮:小松一彦)で、HBCの30周年記念委嘱作、廣瀬量平『寒流帯』が初演された。

 雪まつり期間に合わせてホクレンが提供する無料演奏会「ホワイトコンサート」が、札幌市民会館で始まった。この日のプログラムは、清水町合唱団ほか180人の合唱による「第9」。その演奏をマイクで拾った音は、会場からほど近い大通2丁目の雪まつり会場にも同時に流された。

 ホワイトコンサートは93年まで続けられ、のちの年には岩崎宏美、布施明、五輪真弓など人気歌手も登場。HBC北海道放送の制作で全道に放映される。五輪真弓を迎えた89年には、入場応募はがきが3万通を超えた。

 3月、日本演奏連盟が主体となり札響と北海道新聞社が運営を担う「日演連推薦新人演奏会」が始まった。日演連が、東京、大阪に加えて開催地を全国展開させた中の一環である。オーディションの合格者5人の中には、東京から札幌のおばの家をよりどころにして受けたチェロの鈴木秀美がいた。今や古楽奏者として著名だが、このときの演奏曲はサン=サーンスのチェロ協奏曲第1番である。

 日演連推薦新人演奏会はこのあと、札響若手楽員の独奏を同僚が盛り上げたり、教え子の独奏を楽員がオーケストラの一員として支えたりする姿が見られるようになっていく。

 

 4月には札響の20年史である『札幌交響楽団1961―1981』(北海道新聞社)が発刊された。音楽監督岩城と正指揮者尾高の対談や、楽員の座談会、ファンの声、関係者のメッセージ、演奏会記録などを収め、LPレコードが添えられた。収録曲は、荒谷正雄指揮でモーツァルトの交響曲第35番、ペーター・シュヴァルツ指揮でドヴォルジャークのスラヴ舞曲第1番・第7番・第8番、岩城宏之指揮で廣瀬量平『ノーシング-北へ-』、尾高忠明指揮でハイドンの交響曲第88番『V字』。

 5月定期は、朝比奈隆によるブルックナー。交響曲第0番が注目を集めた。

 

世界初演曲ばかりでオール武満

 

 6月27日、岩城の指揮により、札幌市民会館で「武満徹世界初演曲 札響特別演奏会」が開かれた。すべてこの日がおひろめとなる3曲は、『A Way a Lone』、『海へⅡ』(Toward the SeaⅡ)=オーケストラ版=、『Dream time』。2曲目では独奏の小泉浩(フルート)と篠崎史子(ハープ)が独奏に立った。

 主催したのは札幌の月刊誌『ろんだん』。オール武満プログラムを組んだ1976年12月定期の取り組みをさらに一歩進めたこの企てを前に武満は、「札響だからやろうという気持ちになりました」(北海道新聞1982.5.17夕刊)と語っている。作曲家はリハーサルにも密着し、本番のステージではトークも受け持った。演奏は、9月の開局を前にしたFM北海道が収録し、後日全国放送された。同局にとってもこれは、事業スタートにふさわしい素材だった。

 

 7月から8月のグリーンコンサートは、札幌のほかは、海の見える公園か牧場で、という設定。指揮はすべて尾高で、小樽、根室、江差は予定通りに開催した。浦河は3月にあった浦河沖地震(震度6)の災害見舞いを兼ねていたのだが、雨のため中止され、それに代えて、翌83年3月に町ファミリースポーツセンターで「カムバック グリーンコンサート」が開かれた。この浦河公演をもって、すべてに「夏の」という形容句はつけられないものの、グリーンコンサートは北海道の全14支庁を回ったことになる。

 9月定期では岩城の指揮で、ハイドンの『協奏交響曲』が取り上げられた。今度の楽員ソリストは、市川映子(ヴァイオリン)、土田英順(チェロ)、岩崎弘昌(オーボエ)、戸澤宗雄(ファゴット)が務めた。

 10月には日本で初めての音楽専用ホール、ザ・シンフォニーホールが大阪にオープン。札響はこけら落としのオーケストラシリーズ第2夜に登場して、尾高の指揮でチャイコフスキーのピアノ協奏曲(ピアノ:中村紘子)、ショスタコーヴィチの交響曲第5番などを演奏した。第1夜の大阪フィル、そして札響、そのあとに京響、N響、新日フィルと続いたシリーズの中で、札響は新時代のホールをとりわけ見事に鳴らしてみせたのだった。その日のことを尾高は北海道新聞にこう書いた。

 「ショスタコーヴィチのリハーサルを全部聴いていた中村紘子さんが飛んで来て、真顔で『ベルリン・フィルみたい』と叫んだ。その夜の演奏会は、札幌交響楽団にとっても、中村紘子さんにとっても、大阪の聴衆にとっても、そしてもちろん僕にとっても忘れられない演奏会となった。(中略)大阪の聴衆も、僕達当人が驚くほどの喜びを表してくれ、また、評価も非常に高かった。その後、すでに数回ザ・シンフォニーホールで指揮しているが、その度に札響の話が出る。今や語り草になっている」(1983.2.7)

 

1982年10月20日 ザ・シンフォニー・ホール開館記念 オーケストラ・シリーズ 札響演奏会リハーサル(大阪・シンフォニーホール) 尾高忠明(指揮)

 

■ミニコラム 道内各市町村での「初公演」

 道内の各市町村で札響が初めて公演を行った時期を年代別に見ると、1960年代25ヵ所、70年代31ヵ所、80年代90ヵ所、90年代31ヵ所、2000年代9ヵ所、10年代5ヵ所となった。

 中では80年代の90ヵ所が抜きん出て多く、このうち文化庁の「青少年芸術劇場」と「こども芸術劇場」が26ヵ所、「でんでんマイ・タウンコンサート」が21ヵ所を占めている。

 「でんでんマイ・タウンコンサート」(日本電信電話公社北海道支社=現在のNTT東日本北海道支店=北海道新聞社主催)は「それまで行っていない場所」を中心に開催し、1980-83年の32公演(29ヵ所)中21ヵ所が初めての土地だった。文化庁の2つの「芸術劇場」も初公演地を主体に組み、66公演中の4割がそれに該当した。

 なお未開催地は、平成の大合併後の179市町村中9町村となっている。

 

1983年

 4月から、定期会員券の料金が改定された。S席で見るとシーズン券(4回)が8000円から9200円に、1年券が2万900円から2万4200円になった。

 6月定期は、オーケストラの定期演奏会としてはきわめて珍しいプログラムとなった。演奏されたのは、バルトークの『2台のピアノと打楽器のためのソナタ』で、指揮の岩城が吉田真吾とともに打楽器も担当し、ピアノは木村かをりと一柳慧(いちやなぎとし)。もともとは、このソナタに管弦楽を加えた協奏曲版を演奏すると発表していたのだが、本番直前に急きょ変更され、ソリスト4人だけの演奏となった。

 この6月には、前年の「武満徹世界初演曲 札響特別演奏会」で耳目を集めた雑誌『ろんだん』が、再び岩城の野心的なコンサートに参画した。今度は「作曲家『石井眞木』の世界 札響・鼓童初協演」。「鼓童」は和太鼓集団で、新作2曲を含めた3曲を演奏した。石井もリハーサルに密着し、当日はステージでのトークも行った。

 7月、この年の皮切りとなった札幌でのグリーンコンサートは前年とうってかわって好天に恵まれ、会場を移した知事公館(中央区北1条西16丁目)構内に、5万人という過去最高の人々が集まった。指揮の岩城によって、会場の“主”の横路孝弘北海道知事がステージに担ぎ出されるひとコマもあり、会場を沸かせた。

 グリーンコンサートの5会場目となった夕張は、北炭夕張新鉱が前年10月に閉山された直後であり、まちの再生を托した「石炭の歴史村」の野外ステージ「グリーン大劇場」のこけら落としでもあった。先行した釧路と旭川のグリーンコンサート会場で楽員の呼びかけで集まった義援金約60万円が、中田鉄治市長に手渡された。

 この年の秋、札響は、地域文化への功労を認められて、文部大臣表彰を受けた。深く北海道に根差し、高い水準で音楽活動をしていることが評価されたものだった。

 さらに、第13回のモービル音楽賞の受賞が続いた。広い北海道を舞台にした札響のダイナミックな活動が評価され、それを支えた北海道の音楽風土にも敬意が表されたもの。離島までを行動範囲に入れた札響の年間移動距離は、約1万2000キロ。上関敏夫理事長は、「音楽の伝統というものがない本道で、オーケストラであれば全国と対抗できると団員は精いっぱいやってきた。それが認められ、中央から賞を頂ける第1回として感激このうえない」とコメントした(北海道新聞 1983.9.22)。

 11月、開基100年と市制施行40周年を記念して岩見沢で「第9の夕べ」が開かれた(岩見沢スポーツセンター)。指揮は小林研一郎。地元の合唱団約320人が半年近くかけて取り組み、平日にもかかわらず2500人の聴衆が会場を埋めた。

 12月の「第9」は、ノインテ・コールの20周年とモービル音楽賞受賞記念の演奏会となった。

 

1984年

 この年、札響ユニオンは日本音楽家ユニオンに加盟。楽員のほぼ全員が組合員となった。以後、本部のアドバイスを受けながら、待遇向上や経営の透明化、退職金制度の確立などをさらに求めていく。

 2月の日演連推薦新人演奏会では6人が合格した。テノールの五郎部俊朗(ごろうべとしろう)は北海道教育大学旭川分校(現旭川校)出身で、当時旭川の中学校教諭だった。演奏会を指揮した尾高忠明が北海道新聞に寄せた評に励まされて声楽家への転身を決意。ヨーロッパ留学のあと、日本では数少ないレッジェーロの歌手として、藤原歌劇団を中心に活躍している。

 5月、カナダ人のデイヴィッド・ペリーがコンサートマスターに就任した。85年5月までの1年契約。オランダでアムステルダム・コンセルトヘボウ管の客演奏者などをしていて、岩城の楽屋に売り込みにきたのがきっかけ。「札幌といえばビールとオリンピックしか知らなかった」という状態だったが、新天地での活動に意欲を燃やした。

 この月、四半世紀にわたる札響の定期演奏会のテープ録音を全曲聴こうというロングラン企画が、札幌市教育文化会館音楽資料室で始まった。第1回からのほぼ全回分を、毎週土曜日、6年以上をかけて鑑賞するユニークな試みだ。谷口静司札響主幹による解説がつく。演奏表現の推移ばかりでなく録音技術や機材の変遷などに興味が持たれ、初回には熱心なファンがかけつけた。

 6月16日夜、稚内総合文化センター落成記念として、「札響をバックに第9を歌う市民の会」305人の合唱による「第9」公演が行われた。このとき、75年11月に名寄での公演のときの宣伝に用いられた言葉「最北の第9」は、稚内にその地位を譲った。なお稚内では午後のリハーサルが小・中学生に公開され、『エグモント』序曲を含め夜と全く同じプログラムを聴くという豪華版の音楽教室となった。

 この稚内公演に関しては稚内信用金庫と稚内市に加えて電電公社稚内電報電話局からも大きな協力があり、費用は3分の1ずつの負担だった。そして稚内信金から札響にうれしい申し出があった。「音楽はこれほど人の心を洗い、地域産業と文化の活性化に貢献しているのに、札響の財政は苦しい限りと聞く。道民の生活文化向上に努力している札響を支援しましょう」という、維持員10口の寄附申し込みである。同社はこれを契機に稚内音楽文化協議会(会長:井須孝誠稚内信金理事長)を地元16企業で作り、事務局を引き受けた。初代事務局長の阿部誠(医師)がいまに続く運営態勢を作り上げた。以後86年から音文協札響稚内定期公演を毎年重ねるほか、大小の音楽会を催すことになる。

 同じ6月、石井眞木指揮による札響特別演奏会「伊福部昭の世界 日本SF特撮映画音楽の夕べ」(北海道新聞紙齢1万5000号記念)が北海道厚生年金会館で開かれた。20作近いSF映画のための音楽を作曲者自身が管弦楽作品として構成した『SF交響曲ファンタジー』第1番・第2番・第3番は、「ゴジラ」ファンからゴジラを知らない世代まで、多くの人々に郷土が生んだ伊福部の音楽世界を再認識させた。

 7月、岩城音楽監督が、4期目に入る3年間の再契約。正指揮者尾高も契約を更改して2期目を迎える。岩城は新聞のコメントで、「札響は僕が就任するときに目指した“日本のクリーヴランド管弦楽団”に近づいている」と述べた(北海道新聞1984.7.8)。

 のちに岩城は、演奏回数2600回を記念した北海道新聞の特集(1987.8.16)で武満徹、武田明倫(音楽評論家)と鼎談を行い、「僕はとりあえず札響を、N響が真っ青になるようなオーケストラにしちゃいたいと思っているんです。札幌には日本で一番面白いオーケストラができる状況があるから」と発言している。日本の中で、札響でなら、札響でしか、できないことがある。それが一貫して岩城の胸にあった思いだった。

 9月定期のプログラムには、竹津宜男事務局長のこんな原稿が載っている。翌月に控えた東京公演を前にして東京の記者たちと懇談をした折、「札響定期のプログラムはたいへん面白い。新進演奏家の登場する機会を積極的に作っているし、演奏会ごとのプログラミングもよくできている」と褒められたのだが、札幌市民からは「プログラムが息苦しい。もっとスタンダードなものにしてほしい」という声がさかんに寄せられる。竹津は、最後にこんな問いかけで文章を終えている。「みなさんはどうお考えでしょうか」

 

初の東京自主公演

 

 1984年10月には、6年ぶりとなるその東京公演(指揮:岩城宏之、昭和女子大学人見記念講堂)。東京は3回目だったが、楽団の自主公演として行うのは初めてだった。武満徹の『弦楽のためのレクイエム』、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン:数住岸子)、ブラームスの交響曲第4番という構成。廣瀬量平がプログラムに寄せた「札幌のこと、札響のこと」という文章は、このように締めくくられている。

 「このオーケストラの東京公演はしばしばあったが、自主的な公演はこれが最初だときいて大いに期待しているのは私だけではあるまい。でもこのオーケストラはライラックの花がさくあの札幌のさわやかな空の下でききたいと思う。あるいは白銀の雪の降りつもったあのしじまの中でききたいと思う。そしてそれをきくために札幌に行く人が続出するに違いないことを信じている人は多いのだが、私もまたそのひとりなのである」

 はたして当日、ほぼ満員の会場には、著名な作曲家や指揮者、演奏家、評論家なども顔をそろえ、札響への興味の高さをうかがわせた。後日の音楽評論家諸氏による新聞評では、「北国の空思わす澄んだ響き」(毎日新聞・大木正純)、「武満の〈弦楽のためのレクイエム〉は、私がこれまできいたこの作品の演奏の中で最良のものの一つだった」(北海道新聞・武田明倫)、「音色の統一、整然としたアンサンブル、ともに日本のオーケストラとしては出色の部類といえよう」(朝日新聞・中河原理)と評価されている。

 

1985年

 3月、72年から札響の音楽作りの中枢を担ってきた首席ファゴット奏者戸澤宗雄が退団。作陽音楽大学(岡山県)教授に転じた。

 4月、前年竣工した千歳市民文化センターで、武満徹が黒澤明監督の映画「乱」のために創作した音楽を録音。黒澤は当初、国際的な知名度の高いロンドン交響楽団での録音を考えていたが、武満は信頼を置く札響を強く希望し、それが通った。札響に対するそうした思いを武満は北海道新聞でこう語っている。

 「僕の作品をやってもらった時に札響で感じるインティメート(親密)な雰囲気は、なかなかほかでは味わえないものがありますね。演奏する人たちが好意的で、取り組み方が感じいいんだな。音色も自分の音楽に向いているし。だからもし、自分の全集を録音する機会でもあれば札響にお願いしたいな」(1987.8.16)

 「乱」の録音は同年、オリジナル・サウンドトラックのLP(キングレコード)が発売された。録音媒体の移り変わりに伴って現在ではCDでも、さらには映画のDVDでも、札響の演奏を聴くことができる。

 

「乱」との格闘

横井愼吾(ヴァイオリン奏者)、一戸 哲(元首席ファゴット奏者)

鹿島祥湖(元ヴィオラ奏者)、吉岡幹雄(元打楽器奏者。パーソネルマネージャー)

(2006年2月定期演奏会プログラムから抜粋=肩書は当時)

 

一戸 「乱」のサウンドトラックの録音は千歳市民文化センターで、丸3日かかりました。

鹿島 黒澤監督って、怖い人でしたよね。初日の朝、みんなの前でぶっきらぼうにあいさつしたでしょ。彼は札響のことなんて何も知らなくて、こんな田舎のオーケストラにおれの映画が任せられるのか、という顔をしていた(笑)。で、最初のテイク。オーボエから入る曲ですが、時間はかかったけれどわりと順調にいきました。それで機嫌が良くなっていった。予想を超えていたんでしょうね、札響の響きが。

吉岡 映画の音楽は、それまでわれわれがやって来た武満作品に比べると1曲1曲が短いし、楽譜もわかりやすく書かれている。これなら楽なもんだ、なんて思いましたよ。映像を見ながらイメージをつかむこともできた。撮り終えた映像はカットごとに細かくナンバリングされていて、そこに合わせて音楽を非常に緻密に乗せていく。そのやり方や精度にびっくりしました。

鹿島 だから時間がかかったのよね。驚いたのは、岩城さんの技術。振りながら次々に時間枠に収めていく。もうコンマ何秒みたいな精度でね。ほんとは4日間を予定していたけれど、3日で終わった。黒澤さんは帰るときニコニコして、千歳まで来て良かったと言いました。

一戸 そうそう、最後はどうもありがとうと言ってみんなに頭を下げた。なんだ普通の人じゃないか、と思ったよ。

吉岡 メインの合戦のシーンで、映像とわれわれの音楽だけで構成されるところがあるでしょう。刀や馬の音が全然ない。われわれにとってもメインのシーン。完成するとさっそく封切りで見に行きました。後にも先にも、映画を封切りで見たのはあれだけだな(笑)。

横井 武満作品では余韻が重要ですが、その部分を担うのは弦ですね。70年代にわれわれが武満作品に取り組み始めたころ、武満さんは練習に来てくださって、余韻を大切に、とおっしゃった。ビブラートも、ただ気持ち良いようにかけるのではダメ。武満さんは、自分の音楽は作為なく空気から自然に生まれてくるもののように考えていました。だから曲の終わりも、静かにそのまま空気にとけ込んでいくように、と。ぼく自身若かったし、とにかく必死でした。「乱」のサウンドトラックには、われわれのそんな歴史も響いているんじゃないかな。

 

 5月にはコンサートマスターのデイヴィッド・ペリーが退団。この地で結婚した札幌の女性をつれてドイツに渡った。

 6月には、チェコのヴァーツラフ・ノイマン指揮による特別演奏会があり、ノイマンがチェコ音楽の神髄を聴かせた。ドヴォルジャークのヴァイオリン協奏曲にはチェコ・フィル専属ソリストのヴァーツラフ・フデチェックが出演し、75年の第148回定期以来10年ぶりの協演となった。交響詩『我が祖国』からは「ヴィシェフラード」「ボヘミアの森と草原から」「モルダウ」の3曲を取り上げた。

 

 9月、コンサートマスター市川映子が子育てなど家庭の事情で退団。10月、オーストラリア・メルボルン交響楽団のコンサートマスター、マイケル・キシンが首席コンサートマスターに就いた。ソ連・ラトビアの出身で、リトアニア・フィルハーモニー管弦楽団を経て、冷戦の緊張下に夫妻で亡命。77年にメルボルン響に入ってコンサートマスターとなり、83年12月には第140回北電ファミリーコンサートに独奏者として登場していた。

 

■ミニコラム 「ものまね」協奏曲 山本直純作曲・指揮

 札響の初演曲の中でも飛び切りユニークなのが、山本直純(1932-2002)が江戸屋子猫を「独奏者」として作った「みみくり変奏曲 動物の四季」だ。「みみくり」とは英語のミミクリー(ものまね)のことで、初演は作曲家自身の指揮で1985年5月24日、札幌市民会館での第158回北電ファミリーコンサートで行われた。

 曲はツルのひと声に始まり、「ホトトギスのワルツ」「フクロウのバラード」など全12曲。ほかにニワトリ、イヌ、ネコ、ヒツジ、ウマ、カエル、ウグイス・・・とさまざま登場する。

 しばらく途絶えていた演奏が復活したのは、小猫が4代目猫八を襲名し、2009年秋からの披露興行で取り上げてから。2010年1月には旭川での講演の際にヴァイオリン、ピアノをバックに協演した。猫八は同年2月の北海道新聞日曜版のインタビューで「やりたいですねえ、また札響と。初演してくれた、懐かしいオーケストラですから」と語っている。

 

1986年

 1月に森圭吾(フルート)、翌2月に坂口聡(ファゴット)と、現在の木管の首席が入団。金管の顔であった杉木峯夫(首席トランペット)は3月、東京芸術大学助教授に転じた。恩師中山冨士雄の退官に伴って白羽の矢が立ったもの。9月には細川順三(首席フルート)も東京芸術大学に転じ、のちにN響に入団することになる。

 

 1月の弟子屈公演は猛吹雪に見舞われた中での開催となったが、実行委員たちの熱意で1300人もの聴衆が集まった。しかし周辺の道路がまひしたために近くの温泉に前泊した楽員数人が参加できなくなり、ひとつのセクションが欠けて、急きょプログラムを変更しての演奏となった。町を出るときは、北海道開発局の除雪車が先導し北海道警察の後衛がついての移動となった。

 

 4月、チケット料金が改定され、S席ではシーズン券(4回)が9200円から1万1200円、1年券は2万4200円が2万8600円となり、1回券は各席とも500円ずつの値上げとなった。背景にあったのは、地域公演数や会員数の伸び悩み。公演数は年間135回程度の目標に対して85年度は120回に留まり、会員数もピーク時(78年秋)の1300人から1000人程度に落ちていた。札響の公演は4割弱が市外での開催で、移動距離が長いと費用もかさむ。公的助成も伸びない中では、台所事情が厳しくなることは避けられなかった。

 この年からFM北海道で、札響の録音を放送する番組「札響アワー」が始まった。毎週土曜夜の1時間番組である。

 5月、5期10年務めた上関敏夫理事長が退任。渡辺喜久雄北海道新聞社社長が理事長となった。

 

 7月、尾高忠明が5年間務めた正指揮者のポストから引くことになった。40代を前にした尾高には、オペラを学びヨーロッパで武者修行を、という強い意向があった。尾高は退任のインタビューで「50歳になった時、札響とどんな演奏ができるか楽しみにしていてください」と語っている(北海道新聞1986.5.19夕刊)。最後の定期となったのはこの月で、マーラーの交響曲第4番(ソプラノ:豊田喜代美)ほかを取り上げた。

 

 10月、東京にサントリーホールがオープンしたこの月、初代常任指揮者で札響の生みの親である荒谷正雄が北海道開発功労賞を受賞した。北海道知事が北海道に寄与した人物の栄誉をたたえて贈る最高の賞である。

 

首席客演指揮者に秋山和慶

 

 1986年12月、東京交響楽団音楽監督・常任指揮者の秋山和慶が首席客演指揮者に就任。尾高が去ったあと、音楽監督岩城宏之との2人体制となる。ポストに就いて最初の定期は、12月。フォーレの組曲『ペレアスとメリザンド』、ショパンのピアノ協奏曲第2番(ピアノ:マルク・ラフォーレ)、サン=サーンスの交響曲第3番『オルガン付き』(オルガン:イシュトヴァーン・ラントシュ)が演奏された。

 

■ミニコラム 佐藤勝と留萌 故郷でのコンサート

 黒澤明監督の「用心棒」「天国と地獄」などの映画音楽やテレビ、CM音楽などに数多くの作品を残した佐藤勝(1928-1999)の出身地留萌では、佐藤が札響を指揮する里帰りコンサートが3回開かれている。

 1986年8月の最初の演奏会は留萌青年会議所創立30周年記念企画で、自作の映画音楽「幸福の黄色いハンカチ」「札幌オリンピック」や外国の映画音楽などを取り上げた。2回目(92年10月)は開基115年を記念しての開催で、佐藤が自作曲や洋画などの映画音楽をすべて編集し直して取り上げ、千恵子夫人(歌)や東京の音楽仲間も演奏に加わった。

 97年9月の3回目は開基120年・市制施行50年・開港60年記念と銘打ち、前日に行われた佐藤の代表作「若者たち」(藤田敏雄作詞)の直筆楽譜を刻んだ碑の除幕式と併せての開催だった。66年にテレビドラマのテーマ曲として作られた「若者たち」の碑は夕日の名所・黄金岬に建立され、人が近づくとその旋律が流れ出す。演奏会では旧制留萌中学校の同期生23人がステージに上がって札響をバックに校歌を歌った。

 

1987年

 2月、79年の雪まつりに合わせて始まった無料の「さっぽろ市民コンサート」が50回目となった。肩ひじ張らない雰囲気で良質なクラシック音楽を、と各区で継続し、5万人の市民の耳を楽しませてきたことになる。

 3月の第279回定期では、一柳慧による弦楽オーケストラのための『インタースペース』が世界初演された。プログラムにこのときの指揮者岩城と作曲者一柳の対談が掲載されているが、一柳はその中で札響の同時代音楽への姿勢を評価する。

 「岩城さんの方針で、札響が必ず日本人の作品をとりあげて演奏する、このことは他のオーケストラがやっていない独自のプログラミングというだけでなく、創作発表の場の提供という点でも大きな意味を持っていますね」

 これに対して岩城は、「少なくとも僕が指揮するときは日本の現代の音楽、または海外の音楽にふれてほしい、あるいは耳慣れていってほしいっていうことです。(中略)僕は音楽監督として、ある意味で強行しているのです。お客さんの中には、あんな曲さえなければ、と思っている人もいるかもわからないけれど…」と応えている。

 この回のメインのR.シュトラウス『英雄の生涯』も6月定期でのマーラーの交響曲第5番(指揮:デイヴィッド・シャローン)も札響初めての取り組みで、約100人の大編成となった。東京などから30人ほどのエキストラを呼ぶ経費はかかったが、とりわけ6月定期は客席がいつになく埋まり、ファン待望の公演だったことを物語っていた。

 4月定期の指揮は渡辺暁雄。得意とするシベリウス作品から交響曲第5番をメインに据えたプログラムで、渡辺ファンを堪能させた。

 

 7月には札幌芸術の森が第1期オープンした。総面積およそ40ヘクタールの丘陵地に広がるアートの複合公園で、札響はアートホールの大リハーサル室を優先的に使える練習場として得た。99年終了の第3期工事までで、札幌芸術の森美術館、野外美術館、工芸館、野外ステージと、木工やガラス、陶芸などの工房など多彩な施設がそろえられていく。

 

札幌芸術の森アートホール・大練習室でのリハーサル

 

 グリーンコンサートはこの夏が10年目。遠軽町は開基90年、虻田町は有珠山噴火災害(77年8月)復興10年の記念公演となった。

 

 8月には札響創立期からのメンバーであるチェロ奏者上原与四郎の、プロのオーケストラプレイヤーとなった門下生たちが、「北の大地に育ったチェリストたちの夕べ 上原与四郎+13人の門下生たち」という演奏会を開催(札幌サンプラザホール)。上原は「人生のうちで最も喜ばしい日」とつづった(北海道新聞1987.7.4夕刊)。札響が北海道に植えた種は、4半世紀を超えてここまで育っていた。

 9月、オーボエの岩崎弘昌が西ドイツに留学。首席ホルンの窪田克巳は「斎藤秀雄メモリアルコンサート」の海外再演である「フィルハーモニック・ソロイスツ・オブ・ジャパン」に参加し、小澤征爾、秋山和慶の指揮による2週間ほどのヨーロッパツアーに旅立った。

 11月、事務局は市内の高校生を毎回の定期演奏会に無料招待する事業「札響オリオン」を始めた。52校ある市内の高校から毎回2校、各100人。創立30周年となる91年まで4年間続けると、5000人以上になる。地元オーケストラの響きを若い心に生で体験してもらいながらファンの土台づくりをめざす試みだ。

 この月、長く札響を牽引してきた岩城宏之が頸椎後縦靱帯骨化症の手術を受け、長期療養に入った。事務局はこの事態を受けて指揮者陣の再編成にかかった。

 

 12年間にわたって札響を率いた岩城宏之は、荒谷正雄、ペーター・シュヴァルツが取り組んだドイツ・オーストリア音楽を基盤に、フランスやロシアなど、札響のレパートリーを大きく広げることを目指した。また近代、現代作品、さらには武満徹をはじめとする同時代の邦人作品をきわめて積極的に取り上げ、時代を呼吸するオーケストラ像を札響に託した。

 さらには全道を舞台に、夏の北海道の魅力をクラシック音楽によって多くの人々に再認識させたグリーンコンサート、黒澤映画への参加など、岩城時代の札響は、前史を糧にさらに新たな次元での活動を展開したのだった。

 

インタビュー

札響での11年

杉木峯夫(元首席トランペット奏者・東京芸術大学音楽学部教授)

 

パリに留学して、卒業するとリヨンのオケ(リヨン国立管弦楽団)のオーディションに合格できました。そのまま一度も帰国しないで活動して、30歳になりました。するとやはり日本で仕事がしたくなったのです。それで大学の同期で札響にいた真弓基教君(トロンボーン)への年賀状で、札響でやりたいな、なんて書いた。するとすぐ事務局から連絡が来て、話がトントン進んだわけです。その年(1975年)の6月に初めての海外ツアーがあり、トランペットが足りないという事情もありましたね。

札響では真弓君のほかに、戸澤宗雄(ファゴット)さんを知っていました。東京のオケからもいくつか誘いがあったのだけれど、戸澤さんたちと音楽がしたいと思ったのです。

リヨンのオケは4管編成で110人くらいいた。札響はまだ2管編成。スケールが小さいしイメージする響きがなかなか作れない。最初のころ、これは大変だな、と覚悟しました。

ほどなくして岩城宏之さんが来ました。本格的なスタートとなった75年の10月定期演奏会では、2管のオケが『ペトルーシュカ』をやろうというんだからビックリです。とにかくやるしかないので、練習はもちろん、楽員同士で話し合いもたくさん持ちました。戸澤、窪田(ホルン)、そして僕なんかを中心に、時にはきつい言葉も飛び交った。みんなで楽団の針路や夢までも話したものです。北海道で生まれ育ったメンバーたちには新しい世界だったと思う。だけどだんだん全体の意識が変わっていきました。

ツアーでは道内の主要市町村はもちろん、利尻島や奥尻島なんかにも行きました。札響はモービル音楽賞をもらったけれど(83年)、僕たちは、移動の連続でたくさんガソリンを使ったからだ、なんて言っていました(笑)。

グリーンコンサートがニュースに盛んに取り上げられて、おかげで近所の人に「札響の杉木さん」と認めてもらえました。それまでは堅気の人に思われていなかった。なにしろ平日の昼間から真っ赤な117クーペ(いすゞ)を乗り回していましたから(笑)。ちなみにナンバーも117でした。

86年に東京芸術大学に戻りましたが、悩んだ末の決断でした。なにしろ福住に家を建てたばかりで、ずっと札幌で暮らすつもりだったから。札響にいた30歳からの11年間は、僕の人生にとってもとても大きな意味を持っています。

 

(文中の敬称は略し、肩書は当時のもので記載しました。地名も当時のもので、変更や合併により現在とは異なっているところがあります。引用文については、文字遣いなど、本書のスタイルに改めたところがあります。)