History 1961 - 2021札響60年の歩み
[1969 - 1975]
ヨーロッパの薫り
創設者が去り次のステップへと向かうオーケストラの前に、ヨーロッパから意欲に燃えた指揮者が現れた。ウィーンに生まれ育ち、西ドイツで有数のチェロ奏者として活躍していた44歳のペーター・シュヴァルツである。シュヴァルツは、ヨーロッパの薫りを札響のものとさせていく。
荒谷正雄退任のあと、新たに指揮台にのぼったのは山岡重信である。
山岡は早稲田大学在学中より早稲田大学交響楽団でヴィオラを弾きながら指揮にも取り組み、卒業後は読売日本交響楽団創立(1962年)とともにヴィオラ奏者として入団。67年3月まで在籍している。指揮は岩城宏之、斎藤秀雄に師事した。読響退団後は藤原歌劇団副指揮者に就任し、同年第1回民音コンクール〈指揮〉で第2位となった。
札響の定期演奏会への初登場は、翌68年10月。プログラムの冒頭に据えたのは、武満徹の『弦楽のためのレクイエム』である。のちに札響の名を広めることになる武満作品の楽団初演だった。
3月から4月、札響が4回目の東北ツアーの指揮を任せたのも山岡である。そして4月、山岡は札響指揮者に就任し(読響正指揮者と兼任)、この月の第83回定期演奏会で武満の『地平線のドーリア』、オーレル・ニコレを招いてモーツァルトのフルート協奏曲第2番、ブルックナーの交響曲第4番を演奏している。
8月には、民音主催で二期会(東京)との協演による歌劇『蝶々夫人』の九州公演があり、山岡は7県8カ所の全公演を指揮した。当時を振り返って山岡は、「まだキャリアの浅い自分でしたが楽員や事務局の皆さんにもとてもよくしていただいた」と言う。
68年10月から70年3月まで、彼は定期に6度出演したが、どの回も冒頭には必ず、武満をはじめ箕作秋吉(みつくりしゅうきち)、早坂文雄、廣瀬量平といった邦人作曲家の作品を据えた。山岡は当時を、「岩城(宏之)さんらがN響の世界ツアー(60年)で作ったプログラムには、頭にいつも邦人作品があり、私に限らず当時の若手指揮者の共感を集めていました。谷口事務局長もそうした思いに積極的に応えてくださった」と回想する。ドイツ・オーストリアの古典音楽を中心に据えて実績を積んでいった札響に新たな道のりが広がり始めていた。
しかし山岡は69年9月、文化庁芸術家在外派遣研修員として1年間ヨーロッパで研鑽を積むことになり、年度の終了時点(70年3月)で札響指揮者を辞任することになった。
69年2月定期と11月定期の指揮台には山田一雄が登場。3月定期では作曲家團伊玖磨自身の指揮によって歌劇『夕鶴』が演奏会形式で取り上げられた。5月定期には、朝比奈隆が初登場。シベリウスの交響曲第2番などを演奏している。
69年2月、第81回定期演奏会のプログラムに、谷口事務局長の「北海道文化ニュース」(北海文化ニュース社)への寄稿が再録されている。要点を抜くと、「7年半前に札響が誕生して、入団のため初めて海を渡った楽団員の中で、札幌は日本ではない、と感想をもらす者がいた」といった一節や、創立時には正団員のうち20%にすぎなかった妻帯者が既に70%に達し、平均年齢も28歳になった、とある。さらに北海道の文化のあり方にふれながら、「私たちの、現在していることが、どのような意義をもち、どのような個性をもっていくか。それは、実のところ、自分たちも、よくわからない。子供や孫の時代になって、恥ずかしくない仕事を、誤らずに続けていきたいと思うくらいのものである」と記している。
常任指揮者にシュヴァルツ
1969年8月、西ドイツ・バンベルク交響楽団の首席チェリストだったペーター・シュヴァルツ(Peter Schwarz)が指揮者に就任した。
シュヴァルツは25年、オーストリアのウィーン生まれ。少年時代はウィーン少年合唱団のアルト・ソリストとして活動するほかヴァイオリンやピアノなどを学んでいた。45年からはウィーン国立アカデミー(現ウィーン国立音楽大学)で作曲とチェロを学び、指揮についてはハンス・スワロフスキーやクレメンス・クラウスについている。シュヴァルツは27歳だった52年、ウィーン・フィル楽団員から西ドイツ・バイエルン州のバンベルク交響楽団首席チェロ奏者に就任し、その後18年間にわたって務めることになる。
シュヴァルツが札響に来ることになったきっかけは、68年5月に行われたバンベルク交響楽団の日本ツアーだった。指揮者は、ヨーゼフ・カイルベルトと岩城宏之のふたり。札幌が最後の公演地だったが、指揮台に立ったのは岩城だった。かねて交遊のあった岩城とシュヴァルツは、谷口事務局長をまじえてホテルのバーでくつろいでいた。その席で岩城は谷口に、彼が指揮者になる希望を持っていることを告げる。
シュヴァルツは44歳。ドイツでもベルリン・フィルのオトマール・ボルヴィツキーなどと並ぶ名手といわれ、ウィーン・フィルの客演首席奏者をつとめるほどのチェリストだったが、指揮にも意欲を持ち、アマチュア・オーケストラを自ら組織して指揮に取り組んでいた。岩城がバンベルク響を振るときはいつもチェロのパート譜のほかに総譜を持ってリハーサルに臨み、岩城に「君が倒れたらすぐ自分が代わるのだ」と笑っていたという。チェロの技量はもとより彼の指揮の技術も分かっていた岩城には、オーケストラを発展させる指導者としてシュヴァルツは最適だと思われた。谷口もまた願ってもないことと、話を進めることを即断。シュヴァルツが帰国してから、多くの手紙が谷口との間に交わされることになる。
しかし理事会では反対意見も出される。音楽の実績は申し分ないにしても、日本人のリーダーに足る資質を持ち合わせているのだろうか――。最後に断を下したのは理事長の阿部謙夫である。当時の回想(『その微笑 阿部謙夫追憶誌』に所収)には、この決断が札響の大きな節目になったこと、彼がクセのある難しい人物であった場合を懸念したことなどがつづられている。そして続けて、「これが杞憂であったことは着任後まもなく分かっただけでなく、その人柄のよさに私自身がファンのひとりにさえなっていた」とある。
69年8月、シュヴァルツはふたりの子どもをドイツに残し、まず夫人と共に札幌にやってきた。最初の演奏会は、北見、釧路、根室での労音主催コンサート。ベートーヴェンの『運命』、シューベルトの『未完成』、ドヴォルジャーク『新世界より』という名曲プログラムで、お互いを知るにふさわしいツアーとなった。9月2日の北海道新聞にはシュヴァルツの「就任の抱負」というインタビュー記事が載る。そこでシュヴァルツは札響について、道東での演奏ぶりから「ヨーロッパの保守的、消極的傾向と違って、音楽に対する団員の意欲に感銘を受けた」とコメントしている。
最初の定期演奏会は、9月12日。プログラムはシューベルトの交響曲第7番『未完成』、 ワーグナー『ジークフリート牧歌』、ブラームスの交響曲第2番。クラシック音楽の本場からやってきた指揮者が紡ぎ出す音楽に聴衆は札響の新しい歴史の始まりを感じ、楽団の行く手に大きな希望をふくらませた。
12月定期のプログラムには、シュヴァルツの札響にかけるコラムが載っている。その中で彼は、札響は若いオーケストラであるが、既に8年間で着実な進歩をとげているという認識に立ち、こう述べる。
「一般的に言って、日本人の国民的性格として明らかな特色、つまり規律と勤勉、技術的能力、ヨーロッパ音楽への深い関心などによって、日本のオーケストラはやがて世界の第一級にランクされるであろう。このことは、もし、正しい援助、指導、経験、発展目的などが与えられさえすれば、わが札響についてもあてはまるものである」
■ミニコラム オーディオブームに乗った企画② 生録音コンサート
オーディオブームに乗った企画のもうひとつは札響の演奏を録音するコンサートである。
この催しは1968年から2回、日本オーディオ協会主催の「北海道オーディオ・フェア」の中で行われた。会場はいずれも札幌・道新ホールで、2回目翌日の北海道新聞は次のように報じている。「集まった人たちは、まず生演奏を聞き、この後録音に耳を傾け“ダブル演奏”をたっぷりと楽しんでいた。」
当日はオーディオマニアが持ち込みのテープデッキで録音した。オープンリールの時代で、10インチのデッキや7インチのデッキが並んだ。
年が明けるとシュヴァルツの指揮で、1月定期にはマルタ・アルゲリッチ、2月定期にはハインツ・ホリガーが登場。それぞれプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番、リヒャルト・シュトラウスのオーボエ協奏曲ほかを演奏した。2月の演目には、シュヴァルツが日本に紹介したいと強く願っていたプフィッツナーの作品が入った(小交響曲ト長調)。
この月のプログラムには、谷口事務局長の「シュヴァルツさんのこと」というエッセイがある。そこで谷口は、札幌に来てまだ5カ月あまりのシュヴァルツだが、北海道の音楽ファンはみな彼のファンになった感があることや、市民の中にはシュヴァルツを開拓使が招いたお雇い外国人に比肩させる人もいる、と書く。68年に開拓使設置100年の節目を迎えていた道都で、明治期には科学技術の分野で北海道のインフラ整備に貢献したお雇い外国人が、100年後に今度は文化の伝道者として赴任してきたといった感慨だった。
またシュヴァルツは早くも道外での仕事にも取り組み、1月に東京フィルハーモニー交響楽団の第130回定期演奏会に客演(急病になったニコラ・ルッチの代役)。4月と10月にも登場し、7月には東京文化会館で二期会の『メリー・ウィドウ』と藤原歌劇団の『トスカ』を指揮。来日2年目から大車輪の活動を見せることになる。
半年ほどの“お見合い期間”を経て70年4月、シュヴァルツは常任指揮者に就任した。その月の定期演奏会のプログラムは、モーツァルトの交響曲第38番『プラハ』、R.シュトラウスの交響詩『ドン・ファン』、シベリウスのヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン:江藤俊哉)、ワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』前奏曲である。
7月、札幌バレエ劇場と札幌労音によるドラマチック・バレエ『ポーギーとベス』公演(指揮:福田一雄)。5年越しの企画で、2日間3ステージ。労音にとっては創立10周年記念公演だった。
8月には前年竣工の中島公園野外ステージでサマーコンサート。J.シュトラウスⅡの『美しく青きドナウ』や『こうもり』序曲など、ウィーンの香り立つポピュラーな名曲で市民を楽しませた。
この月からは、生誕200年を記念したベートーヴェン作品の連続演奏会が始まり、12月までの6回で、9曲の交響曲と2曲の協奏曲など、全16曲が演奏された。これは札幌の音楽ファンにとって願ってもない企画であり、本場の指揮者に導かれて楽聖の神髄にふれられる機会として話題を集めた。協奏曲では、第3回で江藤俊哉によるヴァイオリン協奏曲、第4回では、ウラディミール・アシュケナージによるピアノ協奏曲第4番が演奏された。
9月、コンサートマスター佐々木一樹が、海外研修のために2年間イタリアへ渡ることになる。きっかけは、69年6月に行われた札響特別演奏会「イタリア・バロックの夕」。指揮をしたイ・ソリスティ・ヴェネティのクラウディオ・シモーネが佐々木の実力を認めたもので、ヴェローナ音楽院でヴァイオリンと室内楽の研鑽を積みながら、イ・ソリスティ・ヴェネティとパドヴァ管弦楽団の正団員のポストが約束された。7歳で荒谷正雄の門に入り、17歳で江藤俊哉につき、札響創立(61年)にあたっては札幌北高校3年生で準団員に。卒業とともに正団員となった佐々木がイタリアに勇躍留学することは、札幌の音楽ファンに大きな関心と喜びをもたらした。テレマンやハイドン、モーツァルトの協奏曲をそろえた渡伊記念送別演奏会が、恩師の江藤俊哉も参加して行われた(9月22日、札幌市民会館)。
そして10月、シュヴァルツ・札響は初の東京公演を成功させる。生誕200年を記念したベートーヴェン連続演奏会オーケストラ・シリーズ(読売新聞社主催)の第2夜に出演して、『レオノーレ』序曲第2番、ピアノ協奏曲第1番(ピアノ:山根弥生子(やまねやえこ))、交響曲第2番を演奏。音楽評論家丹羽正明は、「東京のオーケストラにはあまり見られなくなってしまった音楽への“おそれ”あるいは初心の“よろこび”が、ここには感じられる。東京の風に毒されることなく、純粋培養された音楽する心を大切に守り育ててほしいものだ」と書いた(読売新聞 1970.10.10夕刊)。
また山田一雄(指揮者、東京芸術大学助教授)は、「幾分閉鎖されたかれ自身の世界に、かれがかかわりすぎるのではないかという、独特の甘さ、おっとりしたテンポ感覚はあるが、それが日本のどの交響楽団も持合わさないソフトな音質をすでに札響に開発させはじめているとしたらば、興味あることである」と書く(朝日新聞 1970.10.10夕刊)。
いちはやく取り組んだブルックナー
11月定期演奏会は記念すべき第100回。シュヴァルツはメインに北海道初演となるブルックナーの交響曲第7番を据え、北海道の音楽ファンのためにいよいよ後期ロマン派の扉を本格的に開けた(札響のブルックナー交響曲初演は69年4月、山岡重信指揮による第4番)。来札して1年3カ月。この時点で既に札響と80回以上の本番をこなしていた。
1月、シュヴァルツは北海道新聞に原稿「札響とともに生きて」を寄せている(1971.1.7夕刊)。そこで彼は、指揮者は「オーケストラの自信と献身能力とを促進するためにその最善を尽くすべき」であり、「自分は楽員のみなさんの友人だと思っています。もしみなさんがそう思ってくださるのなら、家族の父だと思っています」と書いた。そして「札響の成功はすなわち道民の成功にほかならない」と結んでいる。
5月には金管楽器奏者9人が「札響金管合奏団」を結成し、第1回の演奏会を催した(5月29日、札幌・共済ホール)。
札幌オリンピック
この時期札幌のまちと市民は、目前に迫ったオリンピックに向けて高揚のただ中にあった。市は、競技施設ばかりでなく、地下鉄、地下街、市役所新庁舎など都市インフラの整備を一気に進めた。
10周年のこの年、北海道新聞は70年度の状況を「総予算8000万円のうち、演奏収入は半分以下の3600万円。これとほぼ同額を市(1200万円)道(1400万円)国(1100万円)の補助金で、残りを寄附金などでまかなっている」と書き、「内部的プラン」として3管編成90人体制への4カ年計画があることも紹介している(1971.4.14夕刊)。
9月18日。北海道厚生年金会館(現さっぽろ芸術文化の館「ニトリ文化ホール」)が開館した。厚生年金保険加入者の福祉増進を目的として社会保険庁が設置した2300の客席を持つ北日本有数の大ホールで、翌72年2月の札幌オリンピック冬季大会の開催に合わせて誕生したものだ。この日のこけら落としでは、札響の特別演奏会が開かれた。
秋には、いよいよ10周年記念演奏会シリーズ。9月定期では、前年に続いてブルックナーに取り組み、大作の第8番に挑んだ。定期演奏会のプログラムで解説をつづってきた黒川武(北星女子短大教授)は北海道新聞への寄稿(1971.9.17夕刊)で、「巨大な音楽的宇宙に形成されたようなこのブルックナーの作品が、地元の演奏で耳にされようとは10年前には想像も出来なかったろう」と書き、「今後この作品が日本のどこかで演奏される時、この夜の札響の演奏がメルクマール(目印)として引き合いに出される」と締めた。
来札して3年。シュヴァルツは、自らの音楽を、若く吸収力にすぐれた楽団に注ぎこむことに熱中していた。
10月定期は、モーツァルトのレクイエム。合唱は「第9」で札響との協演を重ねてきたノインテ・コール。11月にはクルト・ウェスの指揮によるモーツァルトの管楽器のための『協奏交響曲』とベートーヴェンの交響曲第5番『運命』。『協奏交響曲』のソリストはオーボエ高橋志朗、クラリネット高鹿昶宏、ファゴット高橋敏、ホルン窪田克巳が担った。
1月2日、理事長阿部謙夫が食道がんで死去した。前年12月の定期演奏会には病をおしてヒロ夫人と共に訪れ、札幌市民会館のいつもの「し列29番」、2階通路すぐ前の列の中央の席で耳を傾けていた。何があっても札響定期の夜にはほかの予定を入れないのが阿部だった。しかしこの夜、咳き込みが激しくなり、後半は2階ロビーで扉越しに漏れてくるショスタコーヴィチの交響曲第9番に聴き入っていた。
HBC社葬は1月10日、札幌市民会館ホールで執り行われた。札響はトマジの金管合奏曲を冒頭に、ベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』から第2楽章「葬送行進曲」を演奏。献花のときには、71年10月定期で演奏したモーツァルト「レクイエム」のテープを流した。ホールは年末年始の休館から明けて間もないために冷え冷えとし、しかもオーケストラピットでの演奏だったため、楽員が感じる寒さはひとしおだった。しかし谷口事務局長は、あのときほど全員がひとつになって真心を尽くした演奏はなかったと言う。札響史における隠れた、それも特段の名演だったという(『札幌交響楽団1961―1981』)。
後任の理事長には、伊藤義郎(いとうよしろう)(伊藤組土建社長)が就いた。
オリンピックでは芸術行事も組まれ、音楽会としては、開館間もない北海道厚生年金会館で、まず1月29日にNHK交響楽団演奏会が開かれた。岩城宏之の指揮で、五輪のために作られた武満徹の『ウィンター』が初演された。開幕前日である2月2日にはこの年夏のオリンピック開催地からのミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団(西ドイツ)の演奏会が開かれた。指揮は当初はヴァーツラフ・ノイマンと発表されていたが、チェコスロヴァキアから出国許可が下りなかったため、同じチェコ生まれで同フィルの常任指揮者を長く務めたフリッツ・リーガーとなった。札幌とミュンヘンは8月、オリンピック開催中のミュンヘンで姉妹都市提携を結ぶことになる。
2月4日が札響演奏会。シュヴァルツの指揮で、ワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』前奏曲、ブラームスの『ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲』(ヴァイオリン:海野義雄、チェロ:堤剛)、ベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』の熱演を世界のスポーツの祭典に奉じた。シュヴァルツはアンコール曲に『美しく青きドナウ』を選ぶ。これはアルペンスキーの本場であるオーストリア人であり、生粋のウィーンっ子であるシュヴァルツから五輪を開催する札幌市民への、心からの贈り物であったろう。
芸術行事ではほかに札響は、さっぽろ市民劇場のバレエ『白鳥の湖』の演奏も受け持った(2月10日、札幌市民会館)。
3月の定期には、岩城宏之が登場した。66年7月のサッポロビールコンサート以来6年ぶりで、前半はブラームスとモーツァルトの作品を組み、後半にはストラヴィンスキーのバレエ組曲『火の鳥』を据えた。北海道新聞のインタビュー記事(1972.3.30夕刊)は、まず記者のこんな口上で始まる。「札響の、あまりの上達に、びっくりしたらしい。ある面では、日本一とまで激賞する」
ある面とは、フレーズのつかみ方が西欧のオーケストラ並みになっていることだという。これに続けて岩城は、「正直にいって、N響と比べれば、個々の団員の水準は低いし、使っているのはボロ楽器。それでここまでやれるんですから、N響の指揮者としてはまことに恥ずかしい。2年半でここまで持ってきたシュヴァルツさんの功績は大変なものです。奇跡です」と述べている。また、いまの札響は技術的な面ではやることはやり尽くしている。あとは予算をつぎ込むことだという話も付け加えている。
こうした勢いもあずかって、シュヴァルツ指揮の5月定期をNHKが収録し、5月25日夜、45分間の音楽番組「コンサートホール」で全国放映した。
8月、シュヴァルツは読売日本交響楽団の指揮者を兼任することになり、ドイツから呼び寄せた娘の教育環境のこともあって東京に居を移した。
この夏、ファゴットの戸澤宗雄がコンサートリーダーという肩書で入団し、話題を呼ぶ。戸澤は27年山梨県生まれで、海軍軍楽隊出身。45年東宝交響楽団(現東京交響楽団)の発足時に入団し、その後近衛管弦楽団、N響を経て(旧)日本フィルハーモニー交響楽団の首席奏者を務めていた。独奏や、アンサンブルでも活躍し、札響とは64年2月の第26回定期と71年1月の第102回定期で協演していた。当時、フルートの吉田雅夫(元N響、函館出身)やホルンの千葉馨(N響)らと並び、国内トッププレーヤーとして知られた奏者だった。しかも45歳という、脂の乗り切った時期である。
「日本一のファゴット奏者戸澤宗雄が札響入団」と見出しが躍る北海道新聞の記事(1972.7.10夕刊)によれば、戸澤は日フィルが数年前に初の道内ツアーを行ったときに北海道が気に入って、以来東京での仕事を減らして準備を進めてきたという。「いまの僕は勉強がしたい。それには東京にいては雑用が多くてだめなんです」という彼は、「勉強が出来て環境がよくて良いオーケストラがあるまち」を求め、札幌はこの条件にぴったりあたっていた、という。
創立11周年となった9月定期には、2年間のイタリア修行を終えたコンサートマスター佐々木一樹が独奏に立ってタルティーニのヴァイオリン協奏曲第15番を演奏し、実り多かったイタリアでの活動を雄弁に報告した。
その前後には文化庁主催のオペラ事業に初参加。8月の青少年芸術劇場では『カルメン』(ビゼー)を森正の指揮で、10月―11月の移動芸術祭では『メリー・ウィドウ』(レハール)をシュヴァルツの指揮で、共に二期会(東京)と上演した。2つのツアーで、道内から山陰まで、合わせて20都市を回った。
■ミニコラム 競技種目と同一高度 札幌オリンピックの芸術行事
札幌オリンピック冬季大会が開かれた1972年2月、札響は2つの「芸術行事」に出演した。「芸術行事」はオリンピック規定に競技種目と同一高度の国内芸術展示をしなければならない旨がうたわれているもので、札幌大会では13本の行事が行われた。
札響はシュヴァルツ指揮による演奏会(2月4日、北海道厚生年金会館)を開き、市民劇場によるバレエ「白鳥の湖」(2月10日、札幌市民会館)の演奏を受け持った。「白鳥の湖」の生演奏による全幕上演は道内初めてで、バレエ7団体から60人あまりが出演した。
芸術行事ではほかに、音楽ではNHK交響楽団演奏会(岩城宏之指揮)と同年の夏季オリンピック開催地であるミュンヘン・フィルの演奏会(フリッツ・リーガー指揮)があり、歌舞伎、能・狂言、北国の芸能、浮世絵展、日本現代版画展といった催しに加え、さっぽろ雪まつりもその一翼を担った。札響は大会前夜祭(2月2日、札幌中島スポーツセンター)にも出演した。
3月定期でシュヴァルツは、ハイドンの『協奏交響曲』を取り上げた。独奏はヴァイオリン佐々木一樹、チェロ上原与四郎、オーボエ高橋志朗、ファゴット戸澤宗雄である。4月には世界のトランペット界の最高峰モーリス・アンドレを迎えての協奏曲の夕べがあった。
5月には今日まで続く「北電ファミリーコンサート」がスタートした(タイトルは86年4月から「ほくでんファミリーコンサート」に変更)。このコンサートは一般向けの演奏会には行きにくい子どもたちや、札響の演奏にふれる機会の少ない地域にオーケストラ音楽を届ける趣旨で企画されたもの。以降、クラシック音楽の浸透に大きな役割を果たし続けている。
■ミニコラム 家族で楽しむ ほくでんファミリーコンサート
1973年5月8日、「ほくでんファミリーコンサート」がスタートした(1986年3月の第169回までのタイトルは「北電ファミリーコンサート」)。 通常の演奏会には入場できない小さな子供や札響に触れる機会の少ない地域の人たちにオーケストラの生の響きを届けようと始まったもので、年間十数回の演奏会を道内各地で開き、クラシック音楽の普及に大きな役割を果たし続けている。
2002年3月までHBCラジオがコンサートのライブ録音を北電提供による週1回の番組で全道に流して、放送でも札響と道民の間を結んでいた。
札響にとっては「新人演奏家や指揮者の登竜門」という役割もあり、ファン開拓につなげている。
6月10日、札幌の中心部で初の歩行者天国が実施された。大通西4丁目の道銀本店前の路上で札響のプロムナード・コンサートが開かれ、ビルの谷間に『ニュルンベルクのマイスタージンガー』が響き渡った。
6月定期の指揮は岩城宏之。ヴィオラの菅沼準二、コントラバスの中博昭(札幌生まれ、札幌音楽院出身)によるディッタースドルフの『ヴィオラとコントラバスのための協奏交響曲』や、木村かをりによるバルトークのピアノ協奏曲第2番など、斬新なプログラムが注目を集めた。
8月にはテューバの香川千楯(かがわちたて)が北海道初のテューバ独奏会を開催し、楽員との金管五重奏も披露した。
9月には佐々木一樹が、イタリアから帰国後、定期以外では初めてステージに立ち、楽員の選抜メンバーとの「佐々木一樹バロック・バイオリン協奏曲の夕べ」(指揮:河地良智、札幌・STVホール)で、多くの佐々木ファンを喜ばせた。
道新文化賞受賞
11月、札響は「北海道新聞文化賞」の社会文化賞を受賞した。北海道新聞社創立5周年の47年にスタートしたこの賞は、北海道の文化の振興に功績のあった人々や団体に贈られるもので、札響の12年間の活動が評価されたものだった。ちなみに社会文化賞の第1回受賞者は、釧路出身の作曲家伊福部昭だった。
12月、日本交響楽振興財団の支援による「直純<札響>クリスマスコンサート」が開かれた(北海道厚生年金会館)。
インタビュー シュヴァルツさんに思い切り怒られた話 上原与四郎(元首席チェロ奏者)
シュヴァルツさんがいらした当時、私はインスペクターだったので、ずいぶん行動を共にしました。はじめみんなは、指揮者としてのシュヴァルツさんしか知りませんでした。札幌に来て間もない最初のツアーで、根室で『新世界より』(ドヴォルジャーク)を演奏したんです。おなじみのテーマが出てくる第2楽章。最後の方でチェロの1番とコンサートマスターであの主題を奏でます。練習はごく軽いもので自由に弾かせてくれたから、本番では僕とコンサートマスターの(佐々木)一樹は、めいっぱい良い気持ちになって朗々と演奏しました。 すると次の日、シュヴァルツさんが僕と一樹を呼びつけたんです。ただならぬ気配におそるおそる行ってみると、いきなり僕のチェロを取り上げて、『シェラザード』(リムスキー=コルサコフ)のとびきり難しいコンサートマスターのパートを、いとも簡単に、そしておそろしく見事に演奏してみせました。並のチェリストでは絶対に不可能です。口がポカンと開くくらいびっくりしました。 実は彼は、ヨーロッパでも有数のチェリストだったのですね。彼は言いました。「いいかい、あそこはあんなふうに目立っては絶対ダメ。抑えて抑えて弾くことで、客席にちょうど良く届くんだ」って。ぐうの音も出ません。恥ずかしかったですよ(笑)。 バンベルクやウィーンの人たちが、彼が札幌で指揮者になると聞いて嘆いたそうですね。あんなすばらしいチェリストが指揮者になっちゃうなんてもったいない、と。 |
1月定期には、常任指揮者退任以降初めて荒谷正雄が登場。還暦祝賀と銘打たれた演奏会で、モーツァルトの交響曲第35番『ハフナー』とファゴット協奏曲(ファゴット:戸澤宗雄)、ドヴォルジャークの交響曲第8番を指揮した。
またこの年明けより練習場が、元HBCのスタジオだった大丸藤井ビル4階(中央区南1条西3丁目)から北海道青少年会館(南区真駒内柏丘)に移った。大丸藤井ビルの改築によるもので、北海道青少年会館は札幌オリンピックではプレスセンターとして使われた施設である。650席規模のホールがあり、札響はようやく、大きな空間での練習ができるようになった。
2月、札響は初のレコーディングに取り組んだ。かつて、荒谷正雄時代の64年に、第26回定期演奏会のライヴ録音による「創立3周年記念レコード」(シューマンの交響曲第4番ほか)を友の会会員向けに製作したことなどはあったが、今度はレコード会社東芝EMIの企画によるものである。レコーディングは市民会館で、東京から10数人のスタッフが乗り込んで行われた。曲目はベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』とプフィッツナーの小交響曲で、プフィッツナーには「世界初のレコード化」という惹句がついた。谷口事務局長は北海道新聞の記事で「レコード文献的な穴を埋める役割も果たそうとこの曲を選んだ」と語る(1974.2.7)。レコードは5月新譜として発売された。
この時期板垣武四札幌市長は、姉妹都市への文化使節として、米国ポートランドと西ドイツ・ミュンヘンでの札響公演を構想していた。両都市とも、札幌とほぼ同緯度に位置している。
当初見込まれた費用約2500万円のうち、1500万円は市内の不動産会社である内外緑地の松坂有祐社長が拠出を申し出てくれた。市長は残りもなんとか企業と市民の浄財で、と考えていた。5月にミュンヘンのクロナヴィッター市長が来札した折に話はさらに具体化し、財界や市民団体の代表が「札響姉妹都市親善演奏実行委員会」を結成し、資金づくりに動き出した。ほどなく札響友の会での募金活動も始まり、札幌市は外務省に、国際文化交流基金の援助を申請した。
7月にはチェロの土田英順とヴィオラの西川修助が入団した。土田は新日本フィルハーモニー交響楽団の首席で、交換楽員として米国ボストン交響楽団で1年間の活動も経験。西川はジュリアード音楽院などで学びアメリカン・シンフォニー・オーケストラ(ニューヨーク)の首席を務め、帰国して東京交響楽団に入っていた。「戸澤宗雄以来の大物2新人が入団」と、話題を呼んだ。共にまだ30代で、ふたりに共通する入団の動機は、戸澤同様、東京を脱して環境の良い札幌で音楽に打ち込みたい、という気持ちだった。
インタビュー 私を招いてくれたシュヴァルツさん 土田英順(元首席チェロ奏者)
1973年、私は新日フィルの首席を務めていましたが、東京文化会館でソロリサイタルを開いたとき、終演後の楽屋にシュヴァルツさんがいらっしゃって、札幌に来ないか、と誘ってくださいました。新日フィルのメンバー数名が札響にエキストラとして参加したことがありましたから、谷口事務局長やシュヴァルツさんとは面識はあったのです。 69年、私はボストン交響楽団で1シーズン交換団員の経験を積んで、自分の音楽や音楽を作り出す環境のことをあらためて考えるようになっていました。そうして北海道の豊かな生活環境に引かれて札響に入ることを決めたのです。74年9月のことでした。 はたして来てみると、東京のようなよけいな緊張やストレスとは無縁で、自然や食べものに恵まれたこの土地で音楽をすることが、やがて自分の人生になっていきました。ボストンではポップスも入れて年間ゆうに200本を超える演奏会があり、東京時代よりもさらに殺人的なスケジュールに度肝を抜かれましたが、それに比べれば札幌に来ると、まるで夢のようにゆったりと暮らせました。初の海外公演にしても10日で3公演ですから、いま考えるとなんとものんびりしていましたね。みんなで観光もできました。 入団当初シュヴァルツさんからは、チェロパートを束ねる私への注文がとびきり多かった。とにかく練習が長いし、徹底してしつこいのです。しかも問題があるたびに「ツチダさん、チガウ!」と日本語で言って、運指やボウイングにまでいちいち細かな指示を出してくる。まったく閉口しました(笑)。でもみんなで練習に明け暮れたあの時間が、札響の土台を作ったと言えるでしょうね。 |
9月定期には、小澤征爾が初登場。前年の秋にボストン交響楽団の常任指揮者に就任したことは、クラシック音楽界のみならず社会的なニュースになっていた。プログラムは、ハイドンの交響曲第1番を間にはさみ、ベルリオーズの序曲『ローマの謝肉祭』と『幻想交響曲』が組まれた。小澤と札響は引き続き、同じプログラムで札幌での民音の演奏会と、函館演奏会も行った。
9月から10月には二期会(東京)との文化庁移動芸術祭『蝶々夫人』(プッチーニ)公演で、道内から本州、沖縄までのツアーを行った。沖縄での公演は初めてだった(指揮:森正)。
10月には発足10周年を迎えた二期会北海道支部(現北海道二期会)との、清水脩のオペラ『修禅寺物語』上演(指揮:森正)。二期会道支部との公演は67年5月の『フィガロの結婚』以来7年ぶりで、今度は東京・二期会からの応援なしでの上演だった。
11月には2枚目のレコード「札響ファミリー・コンサート!」(指揮:福田一雄)をキングレコードから発売。チャイコフスキーのバレエ組曲『くるみ割り人形』抜粋など、ポピュラー曲を集めた一枚である。
1月定期の指揮には小泉和裕が初登場。前年のカラヤン国際指揮者コンクールで1位となった若き俊英だが、プログラムのメインにパイプオルガンを要するサン=サーンスの交響曲第3番『オルガン付き』を据えたことが話題を呼んだ。市民会館にパイプオルガンがあるはずもないのに、なぜこの曲を選んだのか。
小泉にはその年ベルリン・フィルの定期演奏会でこの曲を指揮する予定があり、札幌で準備をしてほしいと谷口事務局長が提案したのだった。それも電子式のものではなく、小さくともアコースティックなオルガンを用意して、その生音を増幅させてステージでスピーカーから流す。そのために、パイオニアの札幌支店長を口説き落とした。
当日、ステージには最新鋭の大型スピーカーが20台以上も並び、まるでオーディオ見本市のようだった。谷口は、「支店長も意気に感じてくれて、予算ゼロでできた。谷口のスタンドプレイ、といった声も聞こえたが日本の音楽のためにやってるんだ、という気持ちがあったから意に介さなかった」という。
同月28日、戸澤宗雄を中心にした「札響室内楽の夕べ」が札幌市民会館で開かれた。メンバーは、戸澤宗雄(ファゴット)、細川順三(フルート)、高橋志朗(オーボエ)、村田元久(同)、高鹿昶宏(クラリネット)、村松時雄(同)、窪田克巳(ホルン)に、ピアノの高岡立子が加わっていた。入団当初から室内楽活動も行いたいと考えていた戸澤の念願がかなったものだった。
2月、「札幌交響楽団労働組合」が結成された。初代委員長は、創立メンバーだった本庄谷重雄(ヴァイオリン)。19人が参加し、雇用形態や給与体系、退職金制度などの改善を求めて活動が始まった。
初の海外公演
板垣武四札幌市長を先頭に繰り広げられた募金活動も順調に進み、6月、札幌の初の海外公演が実現した。シュヴァルツに率いられて札幌の2つの姉妹都市、アメリカ・オレゴン州のポートランド、西ドイツのミュンヘンと、近郊のガルミッシュパルテンキルヘンをめぐるツアーだ。ポートランドはまちの名物行事であるバラまつりに参加する入場無料の親善演奏会だが、シュヴァルツにとって里帰りになる西ドイツでは、純粋な演奏会である。
プログラムは、札幌オリンピック冬季大会芸術行事の演奏会で取り上げレコーディングも行ったベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』をメインに、ワーグナーの『さまよえるオランダ人』序曲、そして日本人作曲家の現代曲、外山雄三のヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン:佐々木一樹)である。
渡欧前の座談会(北海道新聞1975.5.2夕刊)で谷口事務局長は、計画当初に交わされた、発案者であった板垣武四市長とのやりとりをこう振り返る。
まだ早いのではないかという気持ちもあった事務局に対して市長は、「早すぎるといってもそれなら、いつになったらいい、というものでもないだろう。ひとがいけ、というのだから、とにかくいってこい。本場でやってきた、というだけでいいじゃないか」と言ったという。板垣には札響に世界の舞台を踏ませたいという気持ちがあった。
札幌市が組む使節団の費用および札響の渡航費を合わせた予算総額は4400万円。うち前述のように松坂有祐が1500万円を出し、札幌市が400万円、道と国からそれぞれ200万円。残りを寄附金でまかなう計画だった。またこれを機に楽団は、念願の3管編成への拡張を図ることになる。ツアーの陣容は、オーディションによって増員された楽員71人に、エキストラ6人となった。シュヴァルツは楽員たちに猛特訓を施していく。今ではありえないほど長時間のリハーサルの日々が続いた。
6月2日、募金活動最後の機会として「海外渡航費募金特別演奏会」が開かれた(北海道厚生年金会館)。プログラムは、ツアーで演奏する3曲である。
6日、チャーター機(DC8-62型)で千歳空港を出発。これは72年の札幌オリンピック以来初の海外直行便で、背景には、千歳空港を国際空港化するための実績づくりの意味合いがあった。関係機関の協力を受け、函館の出入国管理事務所のスタッフによって千歳空港臨時出入国管理事務所が開設された(当時の千歳空港は航空自衛隊との共用で、その隣に民間航空機専用の新千歳空港が開港するのは88年)。
札幌市では、市長を団長とする38人の「札幌姉妹都市使節団」を編成。市民代表として国際親善につとめながら札響の応援をすることとなる。使節団には板垣市長の満子夫人、上関敏夫(かみせきとしお)北海道新聞社社長、岩本常次北海道電力会長、中原哲男北海道拓殖銀行会長、伊藤義郎札響理事長らの姿もあった。市長は、堂垣内尚弘北海道知事も出席した3日の結団式で、「これだけ豪華な顔ぶれの使節団が世界を回るのは空前にして絶後」とスピーチした。
6日、ポートランド空港に到着。空港から都心へは白バイが先導するパレードとなり、使節団と札響を歓迎する市民が沿道で手を振った。翌日の演奏会の会場は、マジソンハイスクール講堂。開演前のセレモニーでは両国国歌を演奏し、板垣札幌市長とニール・ゴールドシュミット・ポートランド市長は記念品を交わし合った。着飾って詰めかけた1300人の聴衆に札響は厳しい練習の成果を披露、アンコールも2曲演奏し(『レオノーレ』序曲、スラヴ舞曲第3番)、惜しみないスタンディング・オベーションを受ける。
11日は、いよいよミュンヘン。一行は、バイエルン王朝ゆかりの音楽の殿堂ヘルクレス・ザールに集った1200人のドイツ聴衆の胸に札響サウンドを響かせた。12日は、ガルミッシュパルテンキルヘンのクール・テアター。同市は36年冬季オリンピックの開催地であり、R.シュトラウスが晩年をすごした地としても名高い。西ドイツで一行は、ミュンヘン市長主催のレセプションや副市長主催の夕食会などに出席するとともに、72年ミュンヘン・オリンピックの会場や小学校、病院などを訪問。市民と交流して両市の友好を深めた。
初の海外公演は、6年にわたってシュヴァルツが楽員ひとりひとりに注ぎ込んだヨーロッパ伝統の音楽が花開いたものだった。オーケストラの本場での鳴りやまない拍手は、姉妹都市への親愛はあったにせよ、札響の実力と個性に向けたものでもあった。
インタビュー シュヴァルツさんが教えてくれたこと
小島盛史 (元チェロ奏者) 私はシュヴァルツさんから個人レッスンを受けて、音楽に対する精神、運弓、運指といった基本からあらためて勉強させてもらいました。 あるとき、カルテットで受けるレッスンがあったのですが、なぜか私は忘れてすっぽかしてしまった。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲『ラズモフスキー』の何番かでした。シュヴァルツさんは私のパートを受け持ち、全部暗譜ですばらしい演奏をしたそうです。メンバーからは後で、すごい経験をさせてもらったと感謝されました(笑)
藤澤光雄 (元首席コントラバス奏者) シュヴァルツさんが来たとき札響はまだ創立8年あまり。若い楽団を徹底的に鍛えてくれました。ひとつのハーモニー、音色、フレーズのまとめ方など、同じところを、気が遠くなるほど繰り返し練習しました。あのころの私たちにはちょうど、心と体のすみずみに正統な音楽をしみこませる必要があったのだと思います。 あるときブランデンブルク協奏曲の5番を、シュヴァルツさんの弾き振りで演奏しました。そのときシュヴァルツさんの奏でる通奏低音が、私を打ちのめしました。音自体は、控えめで単純きわまりないのに、そこに何と深い音楽が満ちていたことか。音楽とはこんなにすごいものなんだと、胸が熱くなりました。 もっと勉強をし直したいと願った私は、シュヴァルツさんのサポートもあって、ウィーン国立音楽大学に留学することができました。 |
シュヴァルツとの別れ
帰国1カ月後の7月、シュヴァルツとの別れがやってきた。1969年8月に赴任してきて以来、6年の歳月をかけて、彼は札響サウンドと呼ばれる響きの基盤を作った。日本に仕事に来るヨーロッパの指揮者が、札幌に来て札響の音にふれるとホッとするという話が広がったのもこの時代だ。また彼は、ベートーヴェンの「第9」をはじめとした合唱作品にも力を入れ、札幌の合唱のレベルを引き上げた。シュヴァルツによってドイツ語の発音が上達し、ズデニェク・コシュラーが東京で「第9」を指揮したとき、札幌(76年12月)では問題なかったのになぜ東京の人たちはダメなのだ、といら立ったという話が伝わってきた。
さらに楽員はもとより多くの聴衆に対してシュヴァルツは、西洋の音楽文化のオーソドックスな世界観や系譜を示し、その核心や魅力に近づく道筋を拓いて見せた。演奏会でシュヴァルツは、客席のざわつきが収まらず、一度上げた指揮棒を下すといったこともあった。クラシック音楽の演奏会に初めて来たという人々も少なくないところで、彼は聴衆の教育者でありトレーナーでもあったと言えるだろう。
そして誕生期から成長期へと入った札響にとっては、大きな恩人であった。彼が来札当初に語った3つの抱負、すなわち「オーケストラの発展、希望にあふれる成功に力を貸すこと。札幌ではまだ演奏されたことのないいくつかの立派な作品を紹介すること。そして北海道にもっとしっかりとした音楽生活を広めること」は、確実に、そして深く進展したと言えるだろう。
任期を終えたシュヴァルツは、故国に戻ってウィーン国立音大での教育を軸に活動することになる。北海道新聞のインタビュー(1975.7.7夕刊)で彼は、思い出深い演奏として、初の東京公演、札幌オリンピック芸術行事の演奏会、レコーディング、そして海外公演を挙げた。また「臨時団員で編成をふくらませれば、もっといろんな曲もやれたが、それは札響に残らない。その費用で1人でも団員を多くしたい、というのが僕の基本方針でした。選曲がオーソドックスすぎるという声があるのは知ってたけれど」と語っている。
7月には送別演奏会が行われた。シュヴァルツ・札響の集大成ともいえるプログラムはワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』前奏曲、ストラヴィンスキーのバレエ組曲『火の鳥』、ベートーヴェンの交響曲第7番である。白いタキシードと黒のズボンに身を包んだシュヴァルツはいつもと変わらぬ表情で指揮台へ向かう。
終演を迎えて、客席を埋めた1600人の聴衆からは、別れを惜しむ拍手が鳴りやまなかった。そのあと市民会館向かいの札幌テレビ塔内の会場でお別れパーティが開かれる。理事長以下役員、楽員、事務局、さらに板垣武四市長夫妻も出席して、6年間の思い出を語り合った。
シュヴァルツは多くのエピソードを残したが、例えば谷口事務局長はエレベーターでの出来事を回想する。あるとき練習場があった大丸藤井ビルのエレベーターにあわてて乗ってきた日本人が、「3階お願いします」とボタンの近くにいた谷口に頼んだ。シュヴァルツは彼らが降りたあとで、「サンカイ」じゃなく「サンガイ」でしょ、と言ったのだ。それも本当は鼻濁音だけれど、最近の若い人は鼻濁音を使えないね、と(『札幌交響楽団1961―1981』)。
またクルマのスピードマニアだったこと、酒豪だったこと、大のラーメン好きだったことなど、人間味あふれる逸話が語りつがれている。
7月、姉妹都市親善演奏会の成功を節目として任を引きたいと申し出た伊藤義郎理事長の後任に、北海道新聞社社長の上関敏夫が就任した。今井道雄丸井今井社長を委員長とした選考委員会から推され、堂垣内尚弘北海道知事、板垣武四札幌市長からも強い要請を受けたものだった。また札幌市が総務・財務にいっそう力を入れる意味で常務理事を2人制にし、5月から事務局長兼任で常務理事となっていた谷口静司に加えて五十嵐誠(教育委員会社会教育部文化課長との兼任)が就任した。12月には北海道教育庁から白馬洋示が事務局長として入り、谷口は常務理事専任となった。
■ミニコラム 廣瀬量平との深い縁(えにし)
札響との関係がとりわけ濃い作曲家に、函館出身の廣瀬量平(1930-2008)がいる。廣瀬は北大教育学部と東京芸大に学び、荒谷正雄が開いた札幌音楽院でも作曲の勉強をした。
札響が初めて演奏した廣瀬の曲は1963年11月に札幌で開かれた「三市交響楽団特別演奏会」のために委嘱した「弦楽のためのファンタジー」だった。札響創立20周年委嘱作品「ノーシング(北へ)」は1981年9月の第218回定期演奏会で初演した。
HBC創立30周年記念の「組曲『寒流帯』」は1982年2月の第115回北電ファミリーコンサートで、また道庁赤レンガ庁舎の1世紀を祝う赤レンガ100年祭のときに実行委が委嘱した「祝典序曲『アカシアの夏』」は、1988年6月、道庁構内での演奏会で初演した。
札幌オリンピック冬季大会がらみの「祝典序曲『ウィンターワンダーランド』」はHBCが札幌オリンピックを前に制作した同名のテレビ番組(1971年10-12月放送)テーマ曲として委嘱したものんで、番組にはシュヴァルツ(指揮)と札響メンバー(小編成)による録音を用いた。公開の場での演奏は、オリンピックから2年後の1974年1月に札幌市民会館で開かれた第10回北電ファミリーコンサート(指揮は山岡重信)が初めてである。
(文中の敬称は略し、肩書は当時のもので記載しました。地名も当時のもので、変更や合併により現在とは異なっているところがあります。引用文については、文字遣いなど、本書のスタイルに改めたところがあります。)