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札幌交響楽団

札幌交響楽団

History 1961 - 2021

1961年9月6日 札幌交響楽団が産声を上げた札幌市民会館での第1回定期演奏会 指揮 荒谷正雄
第1章 荒谷正雄との第一歩 [1961 - 1968]

「わがまちの
オーケストラ」誕生

 日本が戦後復興から成長へと向かっていくなか、札幌の人たちの間で、このまちにプロのオーケストラをという声が高まっていった。市民の思いが結実して生まれた札響は、常任指揮者荒谷正雄のもと、自らの手で道を切り開きながら、その存在感を増していく。

1961年

 1600人が舞台を見詰め息をこらす札幌市民会館。ステージで、ひそやかにそして軽やかに、モーツァルトの『フィガロの結婚』序曲が始まった。音階を駆けのぼりまた駆けおりる弦楽器群とファゴット。管楽器のハーモニーを導いたかと思うや指揮棒は一閃、輝きにあふれた華やかな響きが会場いっぱいにはじけとんだ。札響の歩みが始まった瞬間だった。

 指揮台に立っていたのは47歳の荒谷正雄。その振る棒の動きに応えて清新な響きを放っていたのは平均年齢25歳の50人の楽員たち。この日を心待ちにしていた市民は、ふた月にわたる練習で磨いたアンサンブルから生み出される「わがまちのオーケストラ」の響きに心地よく身をゆだねた。それは札幌の人々、さらには北海道の人々にとって、夢が現実のものとなった特別なひとときだった。

 『フィガロの結婚』序曲に続いては、J.C.バッハの『シンフォニア』op.18-4、シューベルトの劇音楽『ロザムンデ』から間奏曲とバレエ音楽。プログラム最後に組まれたベートーヴェンの交響曲第1番のフィナーレが力強く終わると、会場は一段と大きな拍手に包まれた。

 興奮、喜び、快い疲れ、それら何もかもがないまぜになって上気した表情の奏者たち。そして鳴りやまぬ拍手に応える荒谷が舞台袖からステージ中央に呼び戻されていく。

 アンコールとして演奏されたのは、ブラームスのハンガリー舞曲第5番。さらにシベリウスの『悲しきワルツ』。それでも鳴りやまない拍手に、ハチャトゥリアン『仮面舞踏会』からワルツとギャロップが繰り出された。1961年9月6日(水)夜のことだった。

 翌日の北海タイムスは、札響誕生を報じた記事をこう締めくくった。「道民の、道民による、道民のためのオーケストラは、こうして花々しくスタートした」

 

 この夜そこに生まれたのはまぎれもなく札響だったが、しかしそれは「札幌交響楽団」ではなかった。その誕生のとき、札響は「札幌市民交響楽団」として歩みを始めたのだった。

 

1961年9月6日 第1回定期演奏会(札幌市民会館) 荒谷正雄(指揮)

 

文化会議の発議

 

 札幌市民会館が中央区大通西1丁目に開館したのは1958年7月のことだった。それまでここにあった豊平館を中島公園に移築したあとに建てたものである。前年には札幌テレビ塔が完成し、この年には札幌と小樽で開道90年の北海道大博覧会が開かれて、まちは大都市への道を歩みつつあった。札響が誕生したのは開館3年後のことになる。

 第1回定期の演奏が始まろうとするとき、楽員が席に着くなか、上手花道には3人の姿があった。常任指揮者の荒谷正雄と、楽団代表の阿部謙夫(あべしずお)、札幌市長原田與作である。阿部のあいさつと原田の祝辞は、札響創設に尽くした多くの人たちへの感謝と敬意に満ちたものだった。いくつもの峠を越えてようやくこの夜を迎えることができたという思いが込められていた。

 

 58年6月、更科源蔵(詩人)、国松登(画家)、入江好之(詩人)らにより「北海道文化団体協議会」(会長:九島勝太郎、副会長:荒谷正雄)が発足し、文化団体の連携を図りながら、活動の受け皿や施設づくりを目指す運動を始めた。のちに道立美術館の設立が最初に検討されたのも、この協議会の文化集会である。

 59年8月、市民有志で組織された札幌市文化会議(会長:市岡勝、副会長:荒谷正雄、会員45人)が、札幌にプロオーケストラを創設することを発議した。会議の中心メンバーには、北海道や札幌が物質的な成長を急速にとげる一方で、精神文化が追いついていないという思いがあった。

 3カ月後の11月、米国ポートランド市(オレゴン州)からシュランク市長が来札し、札幌市との間で姉妹都市提携が結ばれた。札幌の最初の姉妹都市である。ロータリークラブや学校の姉妹提携も進んだ。60年6月、中島好雄札幌市教育長らはポートランドを訪れ、全米トップクラスの実力を持つジュニアオーケストラの演奏会に招かれて感銘を受けた。シュランク市長は一行に、今度は札幌のオーケストラを聴かせてください、と望んだ。

 

 市内の音楽家が集って60年に発足した札幌音楽家協議会も、活動目的のひとつにあったプロオーケストラ創設を市民に訴えるべく2回のコンサートを開いた。こうして、音楽ファンや関係者の間で札響創設への思いが次第に共有されていった。

 

 原田市長が国際的な姉妹都市提携を積極的に進めた背景には、将来のオリンピック開催を視野に入れて、海外とのパイプを結ぶ狙いもあった。市民から起こった「わがまちにオーケストラを」という熱い声は、そうした狙いにも合致するものだったろう。

 

 60年12月6日、札幌市民交響楽団設立世話人会が札幌市民会館で開かれた。委嘱を受けた世話人は43人。会長に阿部謙夫(北海道放送=HBC=社長)、副会長に島本融(しまもととおる)(北海道銀行頭取)と佐藤麟太郎(札幌市青少年問題協議会会長)を選び、オーケストラの事業計画案を次のように立てた。

 楽団は財団法人とし、プロアマ混成の2管編成。専属団員30人、準専属団員20人、指揮者1人、事務局員3人の計54人。定期演奏会のほか、小中高生を対象にした音楽教室や地方出張公演、各種行事への参加などを行う。必要な資金は、財団法人の基本財産500万円、楽器の購入費500万円。まず任意団体「札幌市民交響楽団」としてスタートし、併行して財団法人設立の申請を行っていく。

 設立世話人会会長の阿部謙夫は札幌出身で、逓信省の技官などを経て戦後まもなく北海道新聞社の社長、そして51年に設立された北海道放送の初代社長を務めていた。こちらも51年設立の北海道銀行を率いるために札幌に移り住んだ島本融とふたり、以後厚い親交のもとに荒谷と札響を物心両面で支えていくことになる。

 

 翌61年3月からは維持員(現在のパトロネージュ会員)の募集が始まり、楽員やスタッフの募集も続いた。事務作業の実働部隊は、札幌市教育委員会社会教育課である。

 このころ荒谷の下で動いたのが、日本経済新聞社札幌支局の記者時代に荒谷の知遇を得た太田泉。その後立ち上げの事務局に入ることになる太田は、当時をこう回想する。

 「本社の経済部から札幌に赴任すると、東京の学生オーケストラ(ホルン)で活動していた時代の仲間が札幌音楽院の管弦楽団に参加していて、彼から音楽院のオーケストラに誘われました。音楽院の指導者である荒谷さんとも話をするようになり、やがて私は東京本社に戻りますが、荒谷さんから札響創設のために協力してくれないか、と頼まれました」

 太田は61年6月に新聞社を辞めて、札響事務局に入った。

 

ついに設立

 

 1961年3月から4月にかけ、世話人会の中間報告などを受けて、北海道新聞や北海タイムスおよび朝日、読売、毎日各紙の道内面には市民交響楽団が5月中旬に設立される見通しだという記事が載り、市民の関心もしだいに高まっていった。

 維持員は一口5000円で1000口、500万円を目標とし、全国に呼びかけた楽員募集には70人ほどの応募があった。基本財産については北海道放送が200万円を拠出し、残り300万円は北海道拓殖銀行などに要請していた。

 楽器購入費500万円は3月、創立10周年の北海道銀行から寄附が得られた。道銀は、戦後復興期の中小企業の資金需要に応えるべく、51年3月に設立された地方銀行である。61年時点での500万円という金額は、大卒初任給が1万5700円ほどだったから、現在の価値にすると13倍程度になるだろう。この寄附には、第2次世界大戦中のベルリンにさかのぼる、荒谷と島本の交遊があずかっていた。

 島本は、寄附金を出すばかりでなく、組織づくりや経営の見通しで思い悩む荒谷を、財務の専門家として、また人生の先達として支えた。荒谷が支援を求めて回った企業経営者たちの多くを紹介したのも島本である。荒谷はときに島本を自宅に訪ね、夜更けまで議論を交わした。道銀のこの援助が呼び水になったように、基本財産も集まっていった。

 

 5月中旬に発足という見込みは、しかしひと月以上ずれこみ、7月1日となる。理由は運営費確保の遅れである。

 札幌市民交響楽団設立世話人会がプロオーケストラ設立に踏み切ることを決定したのは6月5日の第4回会合だった。ここでは、市議会に対して助成金を請願することを決め、専門委員の審査により準団員全員と正団員の8割が内定していることが確認され、維持会費300口150万円と基本財産500万円の確保の見通しが立ったことが報告された。基本財産の出資に応じたのは、北海道放送、北海道電力、北海道拓殖銀行、北海道相互銀行、北洋相互銀行、札幌テレビ放送(STV)、丸井今井、雪印乳業、日本麦酒(現サッポロビール)、古谷製菓の10社である。

 この日、財団法人札幌市民交響楽団設立総会も開かれ、法人の理事は基本財産の出資会社の代表で構成し、設立までの事務手続きは設立準備委員の梅津正一に一任することを議決した。

 

財団法人札幌交響楽団設立趣意書 昭和37年2月15日 財団法人札幌交響楽団設立代表者 阿部謙夫

 

 今日、音楽は、われわれの日常生活全般に深く浸透し、もはや欠くことのできない生活要素の一つとさえなってきております。

 札幌市においても、近年各種音楽会の聴衆の数が激増し、また、演奏活動の面でも、最近とみに伸展の機運を見せてきており、市民の音楽に対する関心の度は、急速に高まりつつある状況にあります。

 このような発展的機運を背景に、札幌市民を中心に、広く全北海道民の音楽活動の中心機関として、財団法人札幌交響楽団を設立しようとする計画が生まれたことは、むしろ必然の趨勢であって、われわれは、この企図を通じて札幌市民を中心に広く北海道民の音楽文化ひいては生活文化を向上させ、豊かな情操育成の基盤を築き上げたいものと考えております。

 具体的には、札幌交響楽団による定期及び臨時の演奏会の開催、道内各地での地方演奏会の開催、小学校、中学校及び高等学校の児童及び生徒を対象とする音楽教室の開催、各種施設、職場グループを対象とする音楽コースの設置、札幌市における各種行事への参加等を考えております。

 われわれは、以上の趣旨に鑑み、財団法人札幌交響楽団を設立しようとするものであります。

 

1961年3月 札幌市民交響楽団設立趣意書

 

 しかし、年間約1600万円と試算された運営費の確保はおぼつかなかった。うち6割を演奏会収入で、残りを維持員の寄附と札幌市からの助成でまかなう計画だが、札幌市から見込む助成は、初年度5百数十万円、次年度からは3百数十万円(初年度が多いのは、年度途中からのスタートで演奏会収入が少ないため)と、市政史上例のない金額になっていた。もっとも助成といっても、事業計画には市内の学校を巡回して音楽教室を開くことを計画していたから、市の教育事業費の意味合いも持っていたことになる。

 6月24日の札幌市議会総務委員会で、世話人会の阿部謙夫会長らはオーケストラ創設の意義を次のように訴えた。「音楽人口がふえているから音楽会などの活動も中央にばかり頼らず市民のものを育てていく。地元タレントを育てつつ青少年の情操教育に役立てる」(朝日新聞道内面1961.6.21)。運営費助成の請願は採択された。

 
 

 このとき生まれた事務局は、札幌市民会館3階の、社会教育課の一画に置かれた。まるで鶏小屋みたいな一角、と言われた3坪(9.9㎡)ほどのスペースだ。事務局長のポストは空いたまま、太田泉の下に渡辺悦子、ほどなく伊藤博子が入って3人体制となる。現場トップの常務理事には、梅津正一が就任した。梅津は、札幌芸術協会にも関わった音楽通の経済人(北海道農材工業総務部長)だった。

 6月23日には、正指揮者に荒谷正雄、副指揮者に遠藤雅古(えんどうまさひさ)の就任が発表された。遠藤は東京生まれの旭川育ち。東京芸術大学で声楽、クラリネット、指揮を学んだ28歳で、すべては指揮のためと10年かけて芸術大学を卒業したばかりだった。取材に対して荒谷は、札幌市民から愛されるオーケストラに育て上げることを第一の目標にこれから猛練習を重ねると答え、「曲目に幅を持たせたい。職場グループが健全な成長をするよう育成に努力したり身体不自由児や青少年のための精神的な慰問をする。一般市民には野外演奏会を開き札幌の名物としたい」(北海タイムス1961.6.24)と続けた。

 そして6月24日、札幌市の助成がようやく決まる。7月1日、任意団体「札幌市民交響楽団」が発足。9日には中島児童会館で、既にオーディションで選ばれていた楽員を中心にして結団式が行われた。

 

札幌を世界とむすぶ高い文化のまちに

次男阿部修二郎、孫阿部わか子(父は長男孝太郎氏)両氏が語る初代理事長・阿部謙夫の思い出

 

阿部修二郎(以下修二郎) 1960年ころ父が、荒谷さんから札幌にプロのオーケストラを作るために協力してほしいと言われているんだ、などとうれしそうに語っていたことを思い出します。ヨーロッパでは小さなまちにも劇場や優れたオーケストラがある。札幌もそろそろそんなまちを目指すべきだ、と考えていたのですね。まちが自前でオーケストラを作る意義や、その楽団がまちに何をもたらすことができるのか、という思いが父の言葉からいつも感じられました。父をはじめとして札響を創設した人びとは、札響が成長を重ねて、市民の大切な宝となっていくことを心中に期していました。

阿部わか子(以下わか子) もともと阿部の一族は大の音楽好きでしたね。祖父(謙夫)の姉は北星女学校でサラ・クララ・スミス先生の薫陶を受けてキリスト教と西洋音楽に親しみ、長兄は帝大で寺田寅彦(物理学者)を師に持ちましたが、寅彦は自身もヴァイオリンを弾いた大の音楽好き。祖母の弟はプロのチェリスト、指揮者となり、斎藤秀雄ともとても親しかった。祖父は、自分が生まれ育ったまちにプロのオーケストラができることを、心から望んでいたのだと思います。

修二郎 父は札幌市民憲章(63年制定)の選定委員を務めました。その5章には「世界とむすぶ高い文化のまちにしましょう」という一節があります。父たちが札響にかけた思いはまさにこれです。

わか子 のちのオリンピックもそうですが、札幌にはまだ早いという声もあったようですね。なにしろ当時は、札幌のまちづくりが始まって100年もたっていないのですから。でも進取の精神は、北海道を拓いた多くの先人たちの胸に常にありましたし、音楽が家族や仲間を結ぶ大きな力になることを深く理解していた祖父です。逆風があればなおのこと、挑戦してやろうという気持ちが強くなったのではないでしょうか。なにしろ日本を新しい国に作りかえた明治の人々の強さや大きさは、私たちの理解を超えていますから。

 

荒谷の歩みと戦後の札幌

 

 ここで、荒谷正雄のそれまでにふれておこう。

 荒谷は1914(大正3)年、陶磁器などを扱う荒谷商店(中央区南2条西3丁目)の五男として生まれた。中央創成小学校の時代から西洋音楽に惹かれ、札幌商業学校(現北海学園札幌高校)では音楽部で活躍。ヴァイオリンを、建築家でありヴァイオリニストとしても知られていた田上義也(たのうえよしや)に師事して力をつけ、東京の帝国音楽学校に進学。同級生の片山恒子と結婚し、36(昭和11)年秋、ふたりでヨーロッパに留学した。ウィーン、スイスを経て移り住んだベルリン時代に第2次世界大戦の戦火が広がり、シベリア鉄道と船の旅で帰国したのは終戦間近の45年7月。22歳で渡欧した青年は31歳になっていた。

 8月の終戦を迎えるや、荒谷はすぐさま音楽活動を開始した。まず進駐軍の音楽会で演奏。12月には札幌東宝劇場で札幌フィルハーモニー交響楽団を指揮したが、同団はまもなく消滅。続いて47年から10回、北星女学校(現北星女子高校)の講堂でベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ連続演奏会。さらに道内各地にも出かけた。

 

 48年9月、自宅(中央区南9条西8丁目)の2階で「札幌音楽院」を開いた。荒谷夫妻が担うヴァイオリンに加えて、チェロ、コントラバス、ピアノ、声楽などの指導と、作曲や美学、音楽史の講義を組んだ。開校の予定が新聞報道で告げられると多くの応募があり、中から1期生およそ100人が選ばれた。

 このときの生徒で、その後札響に準団員として入団した工藤靖子は語る。

 「昭和22年のある日、NHKのラジオからすばらしいヴァイオリンの演奏が聞こえてきて、心を奪われました。荒谷先生でした。先生が音楽院を作ることが新聞に出て、迷わず申し込みました」

 工藤はのちに音楽院の指導者となり、荒谷の片腕として奔走することになる。

 創立1周年の49年10月には札幌音楽院管弦楽団を結成。51年の近衛管弦楽団札幌公演(指揮:近衛秀麿)の際には松竹座で合同演奏を行った。

 

 戦後10年間ほどは国内演奏家の来演がファンを喜ばせ、戦後も10年ほどたつと、外国からのアーティストの来演も見られるようになった。海外オーケストラが初めて札幌で公演したのは56年6月のロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団。59年にはチェコ・フィルハーモニー管弦楽団、60年にはボストン交響楽団が来札した。札響はそんな時代に生まれたのだった。

 

メンバー構成

 

 楽員にふれておこう。楽員には正団員と準団員、研究生がいた。正団員はプロフェッショナルのプレイヤーである。準団員は一般市民および学生で、札幌音楽院で学ぶメンバーが多く、国鉄職員などもいた。準団員の制度には、アマチュア音楽家へ門戸を開く意味合いもあったが、厳しい財源ゆえに、ギャラが少なくても意欲を持って参画する若い人材を確保する狙いがあった。研究生は正団員になるためのステップで、正団員同様にオーディションで選ばれた。のちに正団員になった人たちもいる。

 楽員構成について荒谷はこう考えていた。はじめに優秀なプレイヤーを高い給与で集められればことは簡単だが、もとよりそれはできない。たとえそうして良い演奏家たちが集められたとしても、彼らは待遇によってまたほかに動くだろう。市民がただ演奏を聴くだけのオーケストラなら東京や海外から呼べばよい。それよりも、共に愛する土地で新しい音楽を作り出していこうという気持ちが大事だし、その思いが札響の将来を約束するだろう。音楽の切り売りをするだけの楽団なら、札幌に作る意味はない。この地に音楽を育てるために街ぐるみのオーケストラを作りたい。その信念から、将来性があれば高校生でも迎え入れることにした。(北海タイムス1972.11.1「札響創設時のメンバー構成」より要約)

 創設時の正団員は17人。うち12人が本州からの入団者だった。弦楽器はヴァイオリン5人、ヴィオラ2人、チェロ2人、コントラバス1人。管楽器はフルート、オーボエ、クラリネット、トランペット、トロンボーン各1人、ホルン2人。

 

初期のリハーサル(中島児童会館)

 

 9月6日開催の第1回定期演奏会のプログラムは既に決まっていた。荒谷は、初回はオーケストラそのものを披露する曲目を並べ、2回目以降には東京や地元のソリストを招いて協奏曲を聴いてもらうつもりだった。

 

 定期会員の組織「札響友の会」の募集が始まったのは8月19日。友の会は、8月を除いて毎月開かれる年11回の定期演奏会を3カ月が基本の4期に分け、1期ごとに募集した。事務局は、友の会は単に入場券の予約割引のための制度ではなく、市民がオーケストラを育てる場にしたいと考え、会員には「札響だより」を発行し、「指揮者からオーケストラの話を聞く会」や「団員を囲んで音楽を語る会」などを開くこととした(実現したのは第2回定期ののち、11月7日から)。

 1期分(定期演奏会3回)の会費は、A席900円(1カ月の臨時会員は350円)、B席750円(同300円)、C席600円(同250円)、学生席450円(同200円)である。第1回定期演奏会を迎える時点で、友の会会員は425人だった。

 事務局はチケットの発売や友の会会員の募集、札響だよりの編集、関係官庁やメディアへの広報の働きかけなど目の回る忙しさだった。

 

心の糧となる音楽を 荒谷正雄(常任指揮者) 第1回定期演奏会の『札響だより』から抜粋

 

 どの国のオーケストラもその特色を充分に発揮するまでには長い年月がかかります。全市民の一人一人から愛される、また異色ある北国の文化を誇示するオーケストラとして、あくまでも真摯な気持ちで望みたいと思います。

 大いなる理想を実現するまでには、早くて5年あるいは10年かかるかもしれません。一日一日をむだにすることなく、着々と前進する覚悟です。もっかスタートして2カ月めで、まだまだ基礎工事のコンクリート打ちの段階です。しかし、早くも今日第1回の定期公演を持つに至りましたことは、団員諸君の酷暑を押してのなみなみならぬ猛練習の結果です。どうか大らかな愛情を持ってこの成長を見てやってください。いわゆる商売的な精神を持たず、市民の美しい夢をつくる、あすへの心の糧となるためにもわれわれ一人一人が技術の錬磨はもちろんのことその表現の厳選となるべき人間の形成にみずからを反省し、努力しなければならないと思います。この信念を忘れずに努力してこそ初めて市民オーケストラが誕生した意味があると思います。友の会の皆様もオーケストラと共に、文化の建設をして頂きたいのです。お互いがよき社会人となり、音楽と共に成長して、心から楽しい日々をおくりたいのです。

 

楽員の思い

 

 初代コンサートマスターには、山形県酒田市でヴァイオリン教師をしていた岩本敬一郎が就任。東京生まれで新潟大学教育学部芸能科出身。青函連絡船に乗って生まれて初めての北海道入りだった。平均年齢25歳のメンバーの中では先輩格となる30歳。

 ほかの主要メンバーを紹介しておこう。フルートの佐々木伸浩は29歳。札幌生まれで、北大教育学部音楽専攻出身。札幌音楽院で小松昭五からフルートを習う。北大在学中に群馬フィルハーモニーオーケストラ(1963年に群馬交響楽団に改称)に入り、その後札幌に戻って北大を卒業。HBCリズムスターズのメンバーとして活躍していた。リズムスターズは劇や歌謡曲の伴奏を仕事にしていた。リズムスターズは劇や歌謡曲の万象を仕事にしていた、HBC専属の15人ほどのバンドである。

 佐々木は、「HBCリズムスターズの仕事の方がよほどギャラは良かった」という。ならばなぜ札響を選んだのか。

 「自分のことだけを考えたら、入団しなかったと思います。生まれ育ったまちにプロのオーケストラができる。よし捨て石にでも何でもなってやろうと思ったのです。札幌の人々が、東京のオケを借りてきたように聴くんじゃつまらない。自分たちのオケを持とう! と思ったのですからね」

 佐々木は第1回定期演奏会のときに配布された札響だよりの「団員から会員の皆さんへ」というページでこう書いた。

 「われわれは《jobかせぎ仕事》の為に集まったのではありません。オーケストラのメンバーは、確固たる精神的目的を持って進まなければなりません。人間精神の確立と擁護という目的も空虚な題目としてあるのではないのです。それは日常の『職業』としての活動の中に存在します。真の音楽はこうした日常の内省と行動からのみ生まれると信じます」

 26歳だった竹津宜男(たけつよしお)(ホルン)は、広島県福山市出身。広島大学医学部に入学するも音楽への夢断ちがたく、親に内緒で同大教育学部音楽科へ転部。60年の秋、藤原歌劇団の北海道公演にエキストラで参加したことが縁での入団だった。

 「最終日にお客さんたちとの交流会があり、スピーチをさせられたのです。初めての札幌で舞い上がっていた私は、『こんなすばらしいまちにオーケストラがあったら、飛んできます』と言いました。すると年があけて太田泉さんから電話をもらいます。『さあオーケストラができます。来てくれますよね』、と」

 創設期、群馬フィル(現群響)から合計5人ものプレイヤーが移籍して来た。チェロの上原与四郎は水戸市出身で28歳。同じくチェロで東京まれの佐藤禎毅(さとうていき)は25歳。ティンパニ奏者の沢井隆夫もいた。上原は言う。

 「みな同じアパートに入りました。高橋裕典さん(ホルン)の家の近くで、彼の家にみんなで毎朝ごはんを食べに行きました。奥さんは大変だったでしょうね。なぜ群馬から札幌に来たか。私は、とにかく大曲を本格的にやれるオーケストラで演奏したかったのです。当時の群響は一管編成でしたから。東京のオケに移る手もありましたが、『鶏口となるも牛後となるなかれ』というやつです。できあがった大きな楽団の末席につくよりも、まだ小さくても新しいところでリーダーのひとりになりたかった」

 群馬フィルから多くが移籍したとき、地元紙の記事にはその創設期を描いた映画「ここに泉あり」(監督:今井正)をもじった「泉が枯れる」という見出しがつけられた。

 青函トンネル開通(88年)のはるか前。東京から札幌に人生の拠点を移す演奏家たちにとって、海峡を渡る旅は新天地への感慨を催させることひとしおだったろう。

 

1961年冬 中島児童会館でのリハーサル

 

本格的に始動

 

 第1回定期演奏会を成功裡に終えて、楽団はいよいよ活動を本格化させていく。

 10月2日には初めて市外に出向き、美唄南高校学校祭で演奏。13日には栗山小学校で音楽教室、夜は同じ会場で一般対象の演奏会を開いた。10月の初めに友の会会員は500人ほどになった。A席会員は定員いっぱいとなったもののB席は伸び悩み、音楽ファンの裾野がまだ小さいことを感じさせた。会員の構成は今日と大きく異なり、20代の女性が半分以上を占めていた。

 第2回定期演奏会は、10月30日。ソリストに諏訪根自子を招いたメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲のほか、ウェーバーの歌劇『オベロン』序曲、ハイドンの交響曲第104番『ロンドン』、J.シュトラウスⅡの『皇帝円舞曲』というプログラム。HBC(中央区北1条西5丁目)のスタジオで行われたリハーサルの模様を伝えた新聞報道には「諏訪さんを初めて協演者に迎える札響のメンバーは誰もちょっと上気した面持ち」とある(北海道新聞1961.10.29)。

 ストラディヴァリウスを携えた大スター諏訪根自子を迎えるために、楽員は2カ月ものあいだ練習を重ねていた。今日では考えられない練習量だが、果たして本番ではその成果が出て、諏訪もご満悦だったという(『札幌交響楽団1961―1981』の楽員座談会)。北海道放送では、定期演奏会の演奏を毎回収録して、テレビとラジオで放送。地元オーケストラの演奏は、草創期の放送局にとっても有力な番組素材だった。

 

1961年10月30日 第2回定期演奏会(札幌市民会館) 荒谷正雄(指揮)、諏訪根自子(ヴァイオリン)

 

 この年の定期演奏会は3回。毎回アンコール曲は3曲用意された。ほかにテレビとラジオの出演が3回ずつ。第3回定期で演奏したサン=サーンス『動物の謝肉祭』のソリストには、地元のピアニスト、横谷瑛司と林靖子が起用された。

 市内外での音楽教室も精力的に行い、12月には、さっぽろ市民劇場の一環として開かれた札幌市民会館でのクリスマス・コンサートに出演した。同劇場は札幌市民会館を舞台芸術の創造と発表の場として活用することを目指して始められたもので、59年3月の第1回公演以降、月2回のペースで札幌の舞台関係者に表現の場を提供していた。

 このクリスマス・コンサートでは、札幌地区合唱連盟、北海道地区大学合唱連盟と協演し、コレルリの『クリスマス協奏曲』やヘンデル『メサイア』などを演奏している。札響の誕生は、札幌のクリスマスに新たなシーンを生み出したと言えるだろう。

 このころ、定期演奏会のプログラムはどのように決められていたのだろう。荒谷の構想に加えて、検討機関として作られたのが、企画委員会である。委員の顔ぶれは、札幌市文化会議の音楽専門委員で札響の設立準備委員でもあった千葉日出城(北海道学芸大学教授)と、九島勝太郎(北海道文化団体協議会会長)、根上新弥(合唱指導者)、山本普(やまもとひろし)(札幌オペラ研究会主宰)、谷口静司(北海タイムス記者)、奥村正秀(北海道新聞記者)。これに楽団側から副指揮者やインスペクターが加わる。

 企画委員に加わっていた北海タイムスの谷口は、音楽に対しての群を抜く見識を見込まれて12月、事務局長に就任した。

 

■ミニコラム 「さっぽろ市民劇場」と札響

 札響創立に3年先立つ1958年7月、札幌市民会館が開館した。「さっぽろ市民劇場」(のちに「札幌市民劇場」)が開幕したのは翌59年3月で、空き日の利用促進と札幌の芸術活動振興を目的に始められたものである。芸術系のもの、娯楽色の強いものなど、さまざまな出し物が並んだ。

 スタートして2年目の60年には特別公演の制度が設けられた。文化運動のさらなる振興を目指して助成金を出す取り組みで、ジャンルの枠を超えて力を結集させた催しが続いた。

 札響が初めて市民劇場に登場したのは創立された61年暮れのクリスマスコンサートである。特別公演では、バレエ界合同による63年3月の「白鳥の湖」(第2幕~第3幕)が初出演で、以降、市民劇場の大きな企画には札響が大きな働きを重ねた。

※札響の演奏記録一覧では、特別公演と準特別公演についてのみ「市民劇場」の表記を入れ、クリスマスコンサートなど札響演奏会については略している。

 

1962年

 年明けにはまず、札幌市の新年互礼会で演奏。原田與作市長は、集まった市議会議員や官公庁、経済界の要人、在札領事らの前で札響を強くアピールした。新年互礼会での演奏はこののち、67年まで続けられた。

 このころ荒谷は新聞のインタビューで、札幌にオーケストラができたことは時代の流れでもあり、さほど特筆すべきことではないとし、問題は音楽の中身であり、聴衆との関わりだと述べる。このまちの生活の豊かさが自然に豊かな音楽になってあらわれること。それが荒谷の願いだった。

 

財団法人化成る

 

 3月1日、札響は念願の法人化をかなえ、名称を「札幌交響楽団」とした。この3月定期から、中島児童会館でのリハーサルを一般公開する試みが始まった。

 

 

 4月には高橋志朗(オーボエ)、高鹿昶宏(こうろくのぶひろ)(クラリネット)、高橋敏(ファゴット)が入り、木管が2管体制になる。

 高鹿は武蔵野音楽大学を卒業してすぐの入団だった。

 「4年生のときからエキストラで参加していまして、62年2月にオーディションがあり、入団しました。恩師の千葉国夫先生や北爪利世先生は、北海道にクラシック音楽を広げるためにもがんばってこいとおっしゃったものです。上野発の夜行列車で東京を旅立ちました。来たころの札幌には、自動車にまじってまだ馬車が走っていました」

 またこの月、来札したポートランド市長の歓迎演奏会で札響が演奏。札幌市は、かつて「今度はあなたのまちのオーケストラを聴いてみたい」とポートランド市長に言われた約束を果たした。

 

 札響は市民の中へ溶け込んでいくために音楽教室に力を入れ、1管編成25人ほどで、小学校から中学校、高校と幅広く巡回した。初年度は11回の開催で約8000人の子どもたちの前に登場し、62年は21回の26校。市内にとどまらず小樽や美唄、栗山、帯広でも開催した。

 教室の内容は、校歌の演奏と斉唱、楽器紹介、名曲紹介と演奏で、LPレコードも高価で一般には普及していなかった時代、生の演奏や良質な楽器にふれることがほとんどなかった子どもたちを大いに感激させている。メンバーはクラシック音楽に無縁だった人びとに、クラシック音楽の成り立ちや演奏会の楽しみ方などを根気よく伝えていった。高鹿は音楽教室のことをこう回想する。

 「当時の学校の体育館は暖房なんてありませんから、手がかじかむ寒い冬の辛さといったらなかったです。あるときなどあまりの寒さにもうだめだ、と中止になってしまった。その学校には、春に温かくなってからまた行きました(笑)」

 

 音楽教室のほかにもさまざまな試みがあった。7月、大通公園西6丁目広場で行われたアサヒビール・プロムナードコンサート(指揮:三石精一)は初の野外コンサートである。チャイコフスキーの『白鳥の湖』などにミュージカルや映画音楽のヒット曲もまじえたプログラム。8月にも、大通公園西3丁目に竣工した噴水の完成を記念して、1時間ほどの野外コンサートを行った。

 前年7月の結団から1年がたち、札響の陣容は正団員23人。準団員、研究生を合わせて約60人となった。友の会の会員数は、約800人。維持費として年間2000万円が必要だが、友の会会員の会費220万円と一般入場者のチケット売り上げ収入、放送出演料などでは足りず、札幌市から300万円、道から50万円の補助を受けている。

 このころの新聞報道では、「団員の報酬は正団員でも3万円を超えるものはなく、研究員は月数千円くらい。好きでなければできない」とある(朝日新聞道内面1962.7.12)。ちなみに62年の大卒初任給の平均は1万7000円あまりだった。

 そうして1周年を迎えた9月、40回のステージをこなしてきた札響の第12回定期演奏会は、1年間の成長を披露すべく組まれたプログラム。パーセル『トランペット・ヴォランタリー』、J.C.バッハのシンフォニアop.18-4、ハチャトゥリアンの組曲『仮面舞踏会』に加え、当時の札響にとっては堂々たる大曲、ベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』 を柱とするもので、第1回定期で演奏されたJ.C.バッハのシンフォニアを再び取り上げたのは、自らの成長を市民に問うものだった。

 その4日後に行われた帯広公演は、札幌に続いて本格的な市民ホールとして開業した帯広市民会館のこけら落とし。初めての泊まりがけの仕事だった。しかしこれには裏話がある。札幌市民会館の開館公演(58年)がそうであったように、帯広市民会館のこけら落としもNHK交響楽団の出演が予定されていた。N響の北海道ツアーの一環である。しかし帯広に向かったN響は水害によって根室本線が不通になり、やむなく札幌から帰京。ならばぜひうちが、と事務局が売り込んでつかんだ仕事だった。

 

 音楽ファンはもとより市民にも少しずつ存在を認められてきた札響だが、運営上の問題も少なくなかった。まず、2管編成というスケール。3管(80人体制)にまで拡大できればロマン派や近代音楽が演奏できてレパートリーを大きく増やせるのだが、現状ではドイツの古典に偏っていると見られがちだった。一方でこれには、ドイツ圏で学んだ荒谷ならではの、オーケストラの基盤作りのためにまずドイツやオーストリアの古典を徹底的にマスターする、という考えもあった。

 第2の問題は、プロフェッショナルが23人で、残りは準団員と研究生という楽員構成。準団員はほかに本業があるために、札幌を離れた長期のツアーに出ることができない。これが大きな足かせとなっていた。帯広公演以前に市外でフル編成で演奏したのは5月、旭川での「第2回お母さんコーラス発表会」のみ。道民のオーケストラとして認められるべく、道内各都市を回りたいと考える事務局だったが、現実は厳しかった。

 こうした問題の根底には、当然ながら財政の問題があった。ただでさえギリギリの運営を強いられている楽団にとって、3管編成にするには維持費もふくらむ。現状でさえ余裕のない練習場(中島児童会館)も別の場所を確保しなければならない。容易に解決できることではなかった。

 

1962年9月19日 第12回定期演奏会(札幌市民会館) 荒谷正雄(指揮)

 

三市交響楽団特別演奏会

 

 1962年の春。高崎市(群馬県)収入役の浦野一男と群馬フィルハーモニーオーケストラ常務理事丸山勝弘が札幌市の原田與作市長を訪ね、文化庁が秋に高崎で予定している地方交響楽団の合同演奏会にぜひ札響も参加してほしい、と呼びかけた。同庁主催の第17回芸術祭の一環である。札響事務局では検討を重ね、願ってもないチャンスと受け止めた。誕生間もないオーケストラとして楽員たちの自信と知名度を高めるにはうってつけだし、3市の3つのオーケストラ、札幌の札幌交響楽団、高崎の群馬フィルハーモニーオーケストラ、京都の京都市交響楽団が連携することで認知度とファン層の拡大が望め、国からの助成を効果的に引き出すことにも有効だろう。こうして62年12月3日、高崎市で「京都・札幌・高崎三市交響楽団特別演奏会」が開かれた(主催:文部省芸術祭執行委員会、京都市、札幌市、高崎市)。9月の帯広で泊まりがけ公演を経験したばかりの楽団の、初の道外演奏旅行だ。

 会場の群馬音楽センターは、日本でも長く活躍したチェコ出身の建築家アントニン・レーモンドの設計により高崎城址に前年夏にできたばかりの話題のホールだった。

 プログラムは、まず群馬フィルハーモニーオーケストラ(42人)が、甲斐正雄の指揮でベートーヴェンの交響曲第7番を。続いて札響(59人)が荒谷正雄の指揮で、モーツァルトの交響曲第35番『ハフナー』とハチャトゥリアンの「『仮面舞踏会』より」。最後に京都市交響楽団(78人)が、ハンス・ヨアヒム・カウフマン指揮でチャイコフスキーの交響曲第6番『悲愴』を演奏。座席数を超える2100人以上の大聴衆を魅了した。客席の中には近衛秀麿など東京から駆けつけた音楽関係者やジャーナリストの顔も少なくなかった。

 聴衆を前に、荒谷が札響創設時に群馬フィルから札響に移った5人のメンバーをひとりひとり立たせて握手を交わしたのは、高崎市民へ感謝と敬意を表したものだった。

 東京や大阪以外のプロオーケストラが合同で演奏会を開き、それぞれの個性を熱く出し切ったこの試みは各界で大きな話題を呼び、東京偏重の文化潮流に一矢を報いるものとして評価を受けた。

 北海道新聞はこうレポートしている。

 「3つのオーケストラのなかで最も印象的だったのは札響である。弦楽器群のボリュームのある明るい音色が聴衆をひきつけ、“アンコール”の声も2、3出ていたほど。青年のように、はつらつとした元気いっぱいの演奏が大きな魅力だった。この点は札響独自のものであり、誕生間もないこの楽団が、すでにこれだけの魅力をもっていることは、北海道の人はじゅうぶん自信をもってよい」。一方で記者はこうも続けている。「しかし問題はやはり残されている。弦に比べて管が劣勢であること、音のニュアンスの表情が乏しく、細かいニュアンスの表現にはまだ不足である」(1962.12.8夕刊)

 楽員ひとりひとりにとって、高崎の聴衆の好反応は大きな自信になった。

 北海タイムスは、紙上で3つの交響楽団のマネージャー鼎談を行っている(1962.12.10)。ここで群馬フィルの丸山勝弘常務理事が、「群馬フィルは東京が近くて不利。うまくなるとみな東京のオーケストラに巣立ってしまう。札響がうらやましい」といった発言をしている。これに対する谷口静司事務局長の言葉は次の通り。

 「確かに全道がマーケットだし、東京のオケに荒らされるということもないです。楽員も3分の2は東京から呼びましたが、海を渡ってきてくれるような人はハラを据えているし、環境も素朴ですから音楽にひたりきれます」

 荒谷は、年が明けて毎日新聞のインタビューにこう答えている。

 「東京にも京都にもない札幌独自の音楽を持つ交響楽団をつくるため、若い力を結集して努力するつもりです。北海道に育つ文化は、中央のマネではいけないと思います」。そして三市合同演奏会にふれて、「こんど高崎へ行って得た大きな収穫はこのような道民の考え方が正しいと確かめられたことです。中央でも札響に大きな関心を払っていることが、私たちを勇気づけました」(1963.1.20)

 

 事務局にとって、創立2年目にして全国にその名をアピールでき、さらには文化庁の助成を受けた意味は大きかった。事務局長谷口静司は言う。

 「この演奏会の主催に文部省を入れて、のちに札響に国からの助成を出しやすくしたのは、文部省芸術課長のシナリオによるものでした」

 

■ミニコラム 飛躍のステップ 三市交響楽団特別演奏会

 1962年から3年間「芸術祭」で行われた「三市交響楽団特別演奏会」は、群馬フィルハーモニーオーケストラ(1963年群馬交響楽団と改称)、京都市交響楽団、札幌交響楽団=設立順=の地方オーケストラ3団体が持ち回りで開催した。

 群馬フィルが文部省に「地方交響楽団の運営は容易ではなく、三市の交響楽団が集まることは、いろいろな意味において有意義」と働きかけて実現したのもので、その第1回は高崎市の群馬音楽センターで開かれた。在京音楽評論家たちがこぞって聴きに訪れ、札響の演奏に「生彩がある」「天真爛漫でのびのび」といった評が寄せられて、札響を中心に認識してもらうのに大いに役立った。2年目は札幌、3年目は京都で開かれた。

 『芸術祭30年史』では初回の年(第17回)の「注目すべき主催公演」として特に1項目を立て、「全国に数少ない専門楽団が合同の演奏会を持ったことは画期的なこと」と紹介している。芸術祭は文部省主催で始められ、68年の文化庁設置以降は文化庁が主幹している。

 

1963年

 5月、札響は朝日新聞女性サークルの例会で、大阪国際フェスティバル出演のために来日したリカルド・オドノポゾフと協演した。戦前20歳そこそこでウィーン・フィルのコンサートマスターに就任した世界的なヴァイオリニストである。

 これが国際的に名高いソリストを迎えた最初で、何度もダメを出す彼の厳しい要求に応えながら成功させたこの演奏会が大きな自信となった。

 

大曲への取り組み

 

 1963年7月には、さっぽろ市民劇場第100回記念公演として、ショスタコーヴィチのオラトリオ『森の歌』を北海道初演。合唱団、少年合唱団と2人の独唱者を合わせ、約300人が大作に挑んだ(指揮:平賀瑛彬(ひらがてるあき)。大きな編成の合唱団が入る曲の演奏はこれが初めてである。

 9月の第22回定期には、創立2周年を記念して、戦前から荒谷と交遊があった近衛秀麿が登場。ブラームスの『大学祝典序曲』を荒谷が、ベートーヴェンの交響曲第1番と第7番を近衛が指揮した。近衛が練習中に連発した「よござんすか?」は、その後もしばらく楽員の流行語になる。

 満2歳の札響は、正団員30人、総員60人の楽団に成長していた。

 10月に行われた「MMO(ミュージック・マイナス・ワン)コンサート」(さっぽろ市民劇場)は、市民会館を満席にする人気を博した。事前に札響が伴奏部分を録音し、本番のステージではソリストがテープから流れる音に合わせて演奏するという、正真正銘のカラオケだった。谷口事務局長のアイデアによる斬新な試みに反応したのが、ソニーだった。のちに社長となる大賀典雄が宣伝担当部長で、自家用飛行機で応援に駆けつけた。

 

■ミニコラム 「オーディオブームに乗った企画①MMOコンサート」

 札響の設立当初、当時のオーディオ人気に乗った企画があった。「MMOコンサート」である。

 「MMO」とはMusic Minus One(ミュージック・マイナス・ワン)の略語で協奏曲などの伴奏部分だけのことを指し、独奏者の練習用にLPやCDが商品化されている。「MMOコンサート」は1963年から3回、さっぽろ市民劇場の一環として札幌市民会館で行われた。

 この演奏会では札響が伴奏部分を事前に録音し、舞台上では独奏者がスピーカーから流れてくる音に合わせて演奏した。伴奏部分の録音は、別室で演奏する独奏者の音を指揮者がヘッドホンで聴きながら指揮して行った。協奏曲以外の曲目は生演奏だった。

 初回翌日の北海道新聞は、大きなスピーカーをバックにモーツァルトのピアノ協奏曲「戴冠式」第1楽章を演奏するピアニストの写真を添え、「“変わった味がある”と満員の聴衆の間で好評だった」と紹介している。

 

 「三市交響楽団特別演奏会」は、この年は11月、札幌市民会館での開催だった。前年の様子を聞いていた友の会会員や音楽ファンの期待は大きく、チケットは完売。札響は、ブラームス『大学祝典序曲』とシベリウス『フィンランディア』の間に函館出身の廣瀬量平に委嘱した『弦楽のためのファンタジー』を組み、初演した。廣瀬は、北大教育学部と東京芸術大学を卒業し、その間札幌音楽院でも学んだ、当時33歳の新進作曲家だった。

 12月定期はベートーヴェンの「第9」を2晩連続公演。札響の師走の「第9」は、まず定期演奏会としてここから始まっている(68年から定期とは別の特別演奏会となる)。合唱は、これを機に市民から募集して組織された「ノインテ・コール」。このあと長年にわたって「第9」公演を支えていくことになる。

 

1964年

 1月5日から3日間、札幌労音の例会で初めてオペラに取り組んだ。曲は『夕鶴』で、作曲者の團伊玖磨自身が指揮した(■ミニコラム「初めてのオペラ『練習は“わずか”10日間』」参照)。続けて3月には札幌オペラ研究会と共に、さっぽろ市民劇場でマスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』(指揮:福田一雄)を上演した。ハチャトゥリアン『仮面舞踏会』のバレエも共に上演され、これも3日連続の公演だった。

 4月の第28回定期演奏会には、岩城宏之が初登場。ベートーヴェンの交響曲第7番、廣瀬量平『弦楽のためのファンタジー』などを取り上げた。

 

1964年5月31日プロムナードコンサート 平賀瑛彬(指揮)

 

 7月の定期演奏会のプログラムには、「3周年を迎える札響」と題した座談会が掲載されている。札幌の一線の新聞記者やラジオディレクターとの話し合いの中で、「札幌のオーケストラ人口は?」という問いに谷口事務局長は、「だいたい3000人と見ている」と発言している。たとえ全部集まっても、定期2公演分だ。友の会会員の年齢層では、20~24歳が最も多く35%。続いて25~29歳が21%。10代と30代がそれぞれ19%。40代以上の会員は少なかった。

 8月には札幌市民会館で3日間にわたる「札響サマーフェスティバル」が行われた。初めてのポップスコンサートである(指揮:福田一雄、平賀瑛彬、奥田道昭)。9月には、3周年を記念して初のLPレコードを製作した。2月の第26回定期演奏会のライヴ録音で、シューマンの交響曲第4番ほかを収めたものだ。

 11月、札響が耕し始めた音楽の新しい畑に、北海道のジュニアオーケストラのさきがけとなったHBCジュニアオーケストラが誕生している。

 「三市交響楽団特別演奏会」は11月に京都で開催され、札響はシューマンの交響曲第4番ほかを演奏し、3市持ち回りで開くという所期の目的を達してこのシリーズは終了した。京都への途次、青森県三沢市で公演したのが東北での最初の演奏会となった。

 

 この年から国の助成を受けることができた。額は250万円。この時点で公的助成は、札幌市から年300万円、北海道から200万円。ほかに収入は演奏料が約2000万円、維持員の寄附が400万円。これに放送出演料などが加わるが、60人のオーケストラを維持するにはギリギリの状態だった。

 

■ミニコラム 初めてのオペラ 「練習は“わずか”10日間」

 札響が初めて取り組んだオペラは「夕鶴」(團伊玖磨作曲)だった。1952年に大阪で初演された、日本の創作オペラの代表作である。札幌でも札響結成前に、59年9月の大谷冽子らの公演(管弦楽は東京フィル)があるなどした。

 札響のオペラ初登場としての公演は、札幌労音が主催し、札幌市民会館を会場に1964年1月15日から3日間行われた。指揮は作曲者自身で、出演は「つう」が伊藤京子と大谷冽子のダブルキャスト、与ひょうが中村健、運ずが栗林義信、惣どが平野忠彦と、日本トップ歌手たちが顔をそろえた。

 初日の模様を北海道新聞は札響が意欲的な演奏を見せたと報じ、その説明部分に、「わずか10日間ていどの練習だった」と書いている。練習期間は、現在の札響なら3日間だ。

 

1965年

 4月、佐々木一樹が20歳でコンサートマスター代理に就任し、話題を呼んだ(翌年からコンサートマスター)。

 公的支援が大幅にふくらんだことも好ニュースだった。国が350万円、道が300万円、札幌市が500万円と、それぞれ前年度より100万円ないし200万円のアップとなった。これを受けて事務局は、定期演奏会では4月に江藤俊哉(ヴァイオリン)、10月にジャン・ピエール・ランパル(フルート)といったビッグネームの招聘を打ち出した。

 正団員は40人に拡充され、友の会会員も800人を数えるまでになった。

 

■ミニコラム 「特別」続きの初期演奏会

 演奏会のタイトルを見ていくと、初期に「特別」と冠したものが多いことに気付く。それも一般向けの特別演奏会ばかりでなく、特別音楽教室が結構ある。

 その冠が付き始めるのは創立翌年の1962年で、年度別に本数をみると62年=一般公演1本・音楽教室4本、63年=8本・3本、64年=10本・4本、65年=3本・0本、66年8本・0本、67年=13本、1本といった具合だ。

 一般公演の中には三市交響楽団演奏会(62年~64年)や初の東北ツアー(66年)と、まさに特別だったものもあるが、音楽教室は、曲目を見ても内容は一般的だ。

 

1966年

 創立5周年の1966年、4月にはヘルベルト・フォン・カラヤン率いるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の初来札があり、全道の音楽ファンの注目を集めた。市民会館での公演後、札響とベルリン・フィルそれぞれ40人ほどずつが出席して交歓会が持たれている。

 定期演奏会では5月にチェコのヨゼフ・スーク(ヴァイオリン、37歳)、9月にフランスのミシェル・デボスト(フルート、パリ音楽院管弦楽団首席奏者)といったスターとの協演がかなえられた。

 また10月には、5周年を記念して初の東北巡回公演を実施。最初の秋田公演では演奏中に停電に見舞われ、ステージからの「少し待ってもらえますか」との呼びかけに、客席は拍手で応えた。北海道銀行からは、5周年記念にアメリカ製のハープが寄贈された。このハープはアメリカまで修理に出すなどして、現在まで大切に使われている。

 

■ミニコラム 初期だけの「準団員、研究員」

 創立当初の団員は50人。楽員は正団員、準団員、研究員からなっていた。

 正団員17人は北海道内から公募で採用したプロ奏者で、1961年7月9日、札幌・中島児童会館にて結団式を行った。弦楽器は第1ヴァイオリン3人、第2ヴァイオリン2人、ヴィオラ2人、チェロ2人、コントラバス1人、管楽器はフルート、オーボエ、クラリネット、トランペット、トロンボーン各1人、ホルン2人である。第1回定期演奏会までにチェロ1人が加わった。

 準団員は教師など他の仕事を持つアマチュアで、推薦で入り、中には高校生や中学生も含まれていた。研究員は正団員になるためのワンステップでオーディションがあった。

 

1967年

 7月、定期演奏会初の外国人指揮者として、51年から54年までN響の首席指揮者だったクルト・ウェス(オーストリア)を招き、ブラームスの交響曲第2番やJ.シュトラウス作品などに取り組んだ。10月には11日間にわたる函館・東北公演があり、指揮は、その年に始まった民音コンクール〈指揮〉で第2位となった山岡重信だった。

 またこの年、かねてより奥行きの不足が問題となっていた札幌市民会館のステージが広げられている。

 

1968年

 この年は「開道100年」(開拓使設置から100年)に当たっていた。6月から2カ月間にわたって真駒内公園(南区)で「北海道大博覧会」が開かれ、9月には円山総合グラウンドで、天皇皇后両陛下、佐藤栄作首相らの臨席のもとで「北海道100年記念祝典」が挙行された。

 札響は4月に市民会館で、真狩出身の八洲秀章(やしまひであき)が作曲した交響詩『開拓者』のレコーディングを作曲者自身の指揮で行った。7月にはさっぽろ市民劇場で『大地・わがうた』(作曲・指揮:平賀瑛彬。独唱、合唱、朗読、舞踊、管弦楽で総勢200余人の大作)を上演。8月には市民会館での札幌市創建100年記念演奏会に出演した。札響は、まちの時代を画すセレモニーに欠かせない存在となっていた。

 

荒谷の辞任

 

 市民交響楽団としてスタートを切った札響の楽員構成は、その比率に変化があったとはいえ、プロの正団員、アマチュアの準団員、プロを目指す研究生の混成であるという状態には変わりがなかった。全員がそろうリハーサルの時間が限られるという当初から存在していた問題は、やがて無理が高じてくる。創立当初の話題性が薄れていくと定期会員数も落ち込むようになり、1967年には220人台となって財政の悪化が急激に進んだ。赤字の規模も放置できないものになっていく。外に見えている印象とは裏腹に、楽団は抜本的な手を打たなければ存続も危ぶまれる局面を迎えつつあった。

 この状況への対処で、荒谷と事務局の思いに隔たりが現れてきた。荒谷は、創立以来のメンバーを大切にしてコンパクトなオーケストラにふさわしい選曲と響きを追求すべきだと考えた。一方事務局は、経営危機を乗り越えるには完全プロ化すると同時にメンバーを大幅に増やし、レパートリーを広げて聴衆を拡大し本番の回数も増やすことが急務だと考えた。準団員切り捨てともなる事務局の改革方針をめぐる軋轢の中で荒谷が選んだ道は、常任指揮者辞任だった。

 

 荒谷は68年10月に退任した。創立以来205回にわたって札響の指揮台に立った荒谷の最後の定期は、この年の6月だった。ブラームスの交響曲第4番をメインに、モーツァルトの『ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲』では愛弟子の佐々木一樹(コンサートマスター)と長女の荒谷陽子が独奏した。

 これに先駆け、3月には準団員に対して契約打ち切りが通知されていた。事務局長としてことに当たった谷口静司は、「軋轢もあったが、そこをクリアすることで札響はようやく一人前になれた」と言う。

 創立から67年まで事務局にいた太田泉はこう語る。「準団員の中には、音楽を優先して職場を変えた人や、大学を休学した人までいました。そうした彼らを忘れたくありません」

 

 札響を離れた荒谷は札幌音楽院をベースに、自身の音楽の原点をあらためて探求すべく、バロック音楽をレパートリーの中心にした札幌プロアルテ合奏団を70年に設立した。

 

 

■ミニコラム 伊福部と早坂 同年生まれの2人の作曲家

 道内ゆかりの作曲家の中でも伊福部昭(1914-2006)と早坂文雄(1914-1955)の2人は同年生まれで、しばしば並び称される。

 「早坂文雄を追悼する演奏会」は1968年5月20日に開かれた。この演奏会では早坂も加わっていた戦前のアマチュアオーケストラ「札幌新交響楽団」の指揮者だった田上義也(建築家)がプロフィールを紹介し、同じく札幌新響指揮者だった鈴木清太郎と札幌放送管弦楽団の西田直道が指揮して交響組曲「ユーカラ」など4曲を演奏した。

 若くして急逝した早坂に対し、長寿を保った伊福部の演奏会は生前に開かれている。

 1980年6月の「伊福部昭の夕べ」は芥川也寸志、84年6月の「伊福部昭の世界 日本SF特撮映画音楽の夕べ」は石井眞木と、共に教え子が指揮。97年10月の「伊福部昭音楽祭」の後、2002年6月の「日本音楽の二つの世界 伊福部昭/山下洋輔」では伊福部初の管弦楽曲「日本狂詩曲」を札幌在住時の作曲時点から67年後に道内初演した。さらに05年11月には、幼少期を過ごした音更町で、図書館にその資料室が開設されたことに合わせて「伊福部昭音楽祭 in 音更」が開かれた。

 

(文中の敬称は略し、肩書は当時のもので記載しました。地名も当時のもので、変更や合併により現在とは異なっているところがあります。引用文については、文字遣いなど、本書のスタイルに改めたところがあります。)